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アンナの出会いのgenarowlandsのレビュー・感想・評価

アンナの出会い(1978年製作の映画)
3.6
最後までアンナに共感できる部分が何一つなかったのでスコア下げましたが、空虚な女性の行動をこんなに事細かに描いた作品ってあるのかと、稀有に思います。アンナには孤独や寂しさは感じられず、私が感じたのは空虚でした。映画監督の設定であるアンナはシャンタル・アケルマン監督自身なのでしょう。

通りすぎる無人の駅はアンナの空虚な人生そのもの。そこには人が存在しない。アンナに近づいてくる行きずりの人たちはいる。なぜなら自分の感情も意見も口にしないアンナは寂しい人たちの格好の聞き役になれるから。寂しい人たちが語り始めるとアンナは身体を寄せて聞こうとし、ふれあう。そこから身体を重ねていく。行きずりの人との逢瀬を繰り返すが誰も愛さない。それが男でも女でも。アンナが愛しているのは金髪で色白の自分自身。それは母親と分離できなかった自分自身。おそらく母親は苦労して家族の生活を支えてきて、家庭に不在だった。花を飾ることより、食べるために稼ぐことだった。

アンナは美しく知的だが、人形のようで、豊かな感情を感じられない。劇中の母親からは豊かな感情を感じられるが、それは理想の姿だったのではないか。アンナの人形のような離人的な様子が実際の母親だったのではないかと思う。

映画を観るとき、たいていの登場人物にどこかしら自分と近い部分があったり、普遍的な思考なり感情なりがあって、共感するのだが、シャンタル・アケルマンは本作で4作品目で、とくに女性が人形のようで、誰一人共感する人はいなかった。寂しさを多少感じられる時もあったが(『ブリュッセル~』)、寂しさより怒りだったり、感情が死んでいたり、空っぽだったりだった。

たいていダメ男が出てきて、男はこてんぱに痛い目に遭わせられる。復讐するかのように。本作でも父親の話は母親から出たが、結局致し方なく一緒に暮らしているということだった。父親への怒りが抑圧されていると思われる。

シャンタル・アケルマンを語るときに、同性愛者であることが指摘されるが、本作を観る限り、男性が求める女性を演じる(与える)ことが出来ず、自身の女性性を否定していると感じた。男性の男性性を避けるのは、男性を父親のように信用できないからであろう。

アンナが結婚はよくても子供を持つことを避けているのは、母親のようになるのが怖かったからだろう。

離人的なアンナは結果的に女性との交際に安堵を得るのだが、その女性も行きずりの人だった。固定した関係を避け、一人旅を続けたいアンナ。

アンナは孤独だったのだろうか。寂しさを抱えていたのだろうか。
そうは思えない。

アンナは家庭内に居場所をもてず、外に人間の営みを求めた。閉じた空間では息苦しいので窓を開け、外気と街の音を入れるのはそのためだ。間接的にしか人と付き合えない。開け放した窓から、町の人々の寂しさや怒り、苦悩がアンナの空虚を満たしていく。アンナを満たすのは愛や優しさではなかった。寂しければ愛や優しさを欲するはずなのに。

アンナは他人の寂しさや怒り、苦悩が足りない時は、探しに出かける。寂しい人間を探しだし、その人と身体を重ねても、固定的な安定した関係は築けない。そこから逃げると、相手はアンナを求めて寂しがる。寂しさをさらに聞くことができる。他人の寂しさをほしいのだ。両親への復讐だろう。まさに空虚である。

Ausgangがテーマだと思った。

アンナが(Ausgangと書かれた)出口から町へ出て行く姿が多いのはそのためである。

Ausgang:出口、地域の外れ、郊外、 (器官の)開口部、外出、(兵士などの)外出許可、結末、 結果、(時代などの)終わり、 末期

シャンタル・アケルマン作品は卒業したくなりました。作品の構成は知的でおもしろいんだけど、共感できる接点が一つもなく、感情の波がなく、心が殺伐としてくる。映画を観て自分に豊かな感情が生まれてこないから。
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