浅井拓馬TakumaAsai

バービーの浅井拓馬TakumaAsaiのネタバレレビュー・内容・結末

バービー(2023年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

「おもちゃの映画」としての肝の座り方が凄まじかった。

現実に存在するおもちゃやゲームの映画というのはいくつか思い出されるわけですが、今作はかつてバービー(おもちゃ)で遊んだなあ、なんか色んなことわかってきたけどわからないことも多いなあ、みたいな年齢層からがはっきりターゲットになっていて、当然だけど、おもちゃを手放しても人生は続く。

バービーたちの世界があるように人間たちの世界もあると設定されているそのお膳立てからそこでしかし両者はイーブンになるわけではなく、造られた側のバービーランドは人間界よりも接触による影響を受けていく。
バービーが存在することによって生まれた功罪も振り返りながら、映画は進み、ここでバービーランドが表しているものとは何か。

お互いに捻れたリアルワールドとバービーランド、作られた側のバービーランドは一見面白おかしく見えるけど、けど望んだわけでもなく生まれ今日まで生きてきたことによる歪はリアルワールドも同じ。
人によって生み出されたバービーランド(そしてこの作品)だからこそ、今回の映画の尺の中で解決できたり即共有できるフィーリングがある。でも現実はなかなかそうはいかない。
何者かである前に、あなたはあなたのままでいいと、定番タイプのバービーが最後に手に入れた人間の体と人生への喜び、でもそこはただの現実。この切なさも溢れる終幕。でも、バービーランドじゃないなら、そこで生きるしかない。
定番バービーの燃ゆる瞳の中には、様々な意味での喜びが溢れているのだろう。それは、楽しいことだけじゃない毎日への闘争の決意の印にも見える。死を獲得することによって、未来という希望が持てる。
たとえば、自分の知らない未来、美しかった老婆の姿に涙したあの日の出来事に心の言語化が追いつくその日に向かって。

あくまで「バービー」の映画として、バービーだから可能な塩梅に纏められたそのバランスが(良くも悪くもありますが)絶妙で、故にホワイトフェミニズムだという批判などは承知のうえ作っているんじゃないかなというフィーリングがあり、だってバービー(おもちゃ)って大量生産、消費の産物でだからこそ皆が持てる、みたいなうそぶきで存在し続けてきたものでもあり。
おもちゃの映画としてそういう残酷に嘘つかなかったというのが震えたというか。映画を作るという行為もそう。
グレタ監督らによる自分語りでもあり、自分たちの目線からのこの世界の喩え話しでもある。
(意気消沈したバービーがグロリアの言葉で立ち上がっていく件なんかは、故に映画的でなく、リアルにその場にいてその人たちの会話を聞いてるみたいな空気感が成立されていた。それは映画としてうまい作りというわけではないんだけれど、本作はあまり決まらなくてもそれをチョイスします、みたいなアティテュードが随所にあった)

サントラを聴きながら、Lizzoの告発された件ってどうなってるんだろうかとか思いながら、この作品に続いていくであろう未来の傑作後発作品たちに思いを馳せたりしながら自分なりの反芻をしているこのごろですが、
ジャンルは違えど未だに怪獣トイ買ったりして好きだし、仕事でフィギュア原型を作ってる身としてもかなりズシンと響くものがありました。