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アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場のdm10foreverのレビュー・感想・評価

4.2
【不謹慎な趣向なのかな・・・】

誤解を恐れずに言うと、僕は「戦争映画」が好きだ。
何故?
う~ん、何故なんだろう。
そこに一種の「人間の本質」を見ることがあるから・・・ちょっと違うかな。
でも大体はそんな感じ。

僕が映画を好きな理由に「他者の人生を追体験できるから」というのがあります。
だから全て完全である必要もない。不完全な登場人物がいたっていい。なんならラストが不条理そのものであったとしても「そういう人生だってあるわな」とどこかで受け入れることもある。
惚れたはれたのラブストーリーでもいい、ゾンビが大量に町に現れるでもいい、その時その時で感じるものは様々。
だけど、生死の境に直面した人間がどういう行動をとるのかという点では、まさに極限の状況下での「本性」が垣間見える。
勿論、映画だから作り物です。フィクションだし、主人公は少なからずヒロイックに描かれている部分だってある。そもそも大多数の主人公が出だしで死んでしまったら、映画が成立しなくなるしね。だからラストまで生き残る人(絶対ではないけど)を主人公にするのも別にいい。
要は、そこに至る過程での「判断」や「心理描写」に、決して日常感じることのない異質な行動や言動が、自分にとっての「(自分には出来ない)他者の人生の追体験」というテーマに合っていると感じるのだと思う。

戦争の様相は第二次大戦を境に大きく様変わりしていると思う。それは映画を観ていても如実に現れている。少なくとも日本はあの大戦以降戦争はしていないから表面的な変化を計り知ることは出来ないけど、その点、時代時代のアメリカの戦争を追っていくとそれがよくわかる。
本質は変わっていないのかもしれないけど、戦争のやり方がどんどん恐ろしくなってきている気がする。
昔はあくまでも「国」VS「国」が基本であり、それを力の優劣で勝敗を決していた。至って単純明快な構図。しかし、時代が進むにつれその対立構造は「文化」や「イデオロギー(宗教的なものも含む)」の衝突がメインとなり、単純に国と国の間の争いではなくなってしまった。戦力の優劣のような「外部要素」的なものではなく、「主義主張」のような「内部要素」での争いは勝敗がつきにくい。たとえ力でねじ伏せても人間の頭や心の中まで支配することは出来ないという事だ。そこには「敵対国への勝利」ではなく自身の「主義主張」を完遂する、いわば「マクロ→ミクロ」な戦争へと変わってきた。テロなんてのはそのさい最たる例かも知れない。
さらに厄介なことに軍事技術がめざましい進歩を遂げているため、力がなくても戦争を行うことが出来るようになってしまった。
まさに「いつでも、どこでも」戦争が始められる時代なのだ。
国対国のような大掛りな単位の対立ではなく、宗教・思想の対立や独裁者の排除など、目的も始まるきっかけさえも多様になってしまった。
まさに我々現代人は「戦後」ではなく「戦時中」を生きているとも言えるのかもしれない。

今回の映画では戦争映画でありながら舞台は密室。あらゆる最新機器を使ってピンポイントにターゲットを見つけ抹殺する。今回使用されたドローンは「MQ-9リーパー」で射程距離を6km近くにもなる(因みにこの機種はシンゴジラやトランスフォーマーリベンジなどでも出ている)。リーパー=死神って・・・。

これは実際の軍事作戦でも使用されていて、ISの掃討作戦でも数十人の戦闘員を殺害したとも言われています。

そんなものがね、空から人間を監視して狙っているわけです。こちらが気が付かない状況で。そして軍の上官たちはコーヒーを飲みながら会議室のモニターで動向を注視し、指示を出します。こちら側に損害の危険性はゼロ。しかし決断を誤れば国際的な批難の的にされる。ある意味ではリスクの意味すら変わってしまったのかもしれません。

「戦争を始めるのは政府。戦争をするのは軍人。戦争の後始末をするのは政府」

実に的確な表現でした。

物語では対照的な「二人の少女」の存在が印象的でした。
方や戦場で健気に今日を生き抜くために、道端でパンを売って実家の生計を手伝う少女。まさか、そんな何の変哲もない日常の1シーンが、色々な国のお偉いさんたちをも巻き込む緊迫した状況になっているなんて想像もしませんよね。「今、危険だよ!」なんてあの状況じゃわからないよ。そしてそんな彼女の命を数字(付随的損害の割合)で決めるという一種のゲーム的感覚が恐ろしかった。
そしてもう一人、作中には登場しませんがベンソン中尉の孫娘です。彼女自身が何かをするわけではありません。物語の序盤でベンソン中尉が仕事前に立ち寄ったおもちゃ屋で孫娘に人形を買ってあげようとしますが、中々好みの人形が見つけられず、結果的に間違って違う人形を買ってしまうという行があります。その後ベンソン中尉は会議室(ブリーフィングルーム)の中で、正義の名の下に現地の少女を犠牲とすることも厭わない決断をします。そして「仕事」が終わって会議室を出ると、部下が先ほどの人形を孫娘が欲しがっていたものに買い直してくれていました。この温度差こそが「この映画の全て」なのかとすら思えるくらいです。
まるで映画でも観終わったかのように、さっきまでの緊迫したやりとりはモニターの向こう側の出来ごとだったんだよとでも聞えてきそうな感じでした。
作戦終了後に政務次官から「恥ずべき作戦だった」と批判され、「戦争の代償をわかっていないなんて、今後軍人に対して言うな」と一喝しますが、それすらも自己肯定の言葉にしか聞えなかった。
果たして、この孫娘があの現場でパンを売っていたら、ベンソン中尉は同じ決断が出来たのでしょうか?

「事件は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きてるんだ!!」
「あなたが青島くん?事件は現場で起きてるんじゃない、会議室で起きてるの。勘違いしないで!」

観終わった後、こんなやりとりを思い出しました。
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