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ブレードランナー 2049のeucalypsoのレビュー・感想・評価

ブレードランナー 2049(2017年製作の映画)
4.0
注意:無駄に長いです。

ブレードランナーというカルトSF映画の続編を、前作の監督(と主演男優)がアンダーコントロールするというガチガチの案件で、リドリー・スコットによる原案がエイリアン近作やレイズド・バイ・ウルブスでも展開された人類創生や宗教が絡む、ややこしいお題。

この面倒くさすぎる企画を引き受け、モノにしたドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、素直に凄い人だと思う。

撮影のロジャー・ディーキンスと共に作り上げた映像美は十全で、美術ドリブンな雰囲気映画として最高。劇場で2回観て、今回3回目、飽きない。

クラシカルでミニマルなモノを好むドゥニらしく、前作で示された西洋と東洋のポストモダンなミックス、猥雑な生命力は後退し、雨降るロサンゼルスは雪降る東欧の都市になぞられ、隔壁に囲まれた牢獄に。エロスよりタナトス?ロスの夜景が暗すぎて、せっかく作ったセットがほぼ見えないのが玉に瑕。

スピナーの飛行シーンは前作では技術的に不可能だった空間的広がりがあり、太陽光パネル群からのサッパーの農場、サンディエゴのゴミ処理場と、ロス郊外がロス本体より開放的に映る。陰鬱なトーンは一緒だけど。

ロスだけじゃ持たねえよというか、街中のゴチャなカオスが気質的に肌に合わないドゥニによる美術の到達点が、後半のラスベガスだと思う。

オレンジ色に染まるラスベガスのビル群にスピナーが現れ、デッカードの家(シド・ミードが本作で手がけた数少ないデザイン)を襲撃する一連のシーケンス。

壁を突き破るK、一撃で破壊されるデッカードのスピナー、悠然と侵入するウォレス・スピナーから降りる敵。この不穏で禍々しい緩急のリズムは、デューンでスパイス採掘機をサンドワームが襲撃するシーンにも通じる。

ラスベガスの高速道路をスコープする映像(前作のエスパー・コンピュータによる画像操作のアップグレード)、ウォレスの目の代わりとなる黒い勾玉のようなマシン、昆虫やバースデーケーキをリアルタイムに変化させるアナ・ステリンのARな記憶造作など、監督はテクノロジー絡みの表現が上手い。6年前なのに古びてない。

一方で、この世界には携帯がなく、写真がまだ現存している。レイチェルの生存の証はかろうじて写真でしか確認できない。

AIのジョイは地味渋な本作の中で一際キャッチーでエモい。ジョイがエマネーター装置内に自分を封印することでラヴの監視を遮断しKを救おうとするのが健気。

商業用AIであっても自我というか意思が芽生え、ネットと切り離され物理的存在になることで死に近づく流れが秀逸。彼女の親身なサポートを時々Kがウザがるのもなんか微笑ましい。

ジョイとマリエットのホログラム合体とか、砂漠にそびえる巨大女体とか、アーティだけど色気がない。神殿のようなウォレス社屋で産み落とされる女性レプリカント。赤ん坊なのに成人のカラダとして産まれる不気味さがエグい。やっぱり監督はエロスよりタナトスが得意?

主人公Kはレプリカント、まがいものとしての生を淡々と生きてる。人間か人造物か、ホンモノかニセモノかという前作と原作のテーマは引き受けつつ、監督はもうそこにはさしてこだわってなさげで、属性やラベリングを超えて、何が人たらしめるかによりフォーカスしてる。実際、登場人物のほとんどがレプリカントで主客転倒してるし。ウォレス、レプリカントもう十分いるってよ。

前作のデッカードとレイチェルの会話が映像を伴わない録音物として流れる場面は、映画の内と外の虚実がさりげなく目の前に提示されたようで、後半の2人の登場より個人的にインパクトがデカい。

デッカードとレイチェルが子供を産んだことを奇跡と称して神格化し、その子供を捜索するミステリーを主軸に据える。オリジナルに拘泥する続編という本作の成り立ちも含め、ココがずっと引っかかってる。

生殖という神話とブレードランナーという作品の食い合わせがどうにも良くない気がして。前作がハードボイルドでノワールな探偵物の定型、そのシンプルな構造の中に多元的な文化を隠し味として効かせたのに対して、風呂敷を広げすぎじゃないかなと。

大筋としては、色々あって精神的にヨレヨレのK、肉体的にヨレヨレのデッカード、擬似親子の2人がデッカードの娘に再会するお話。家族ドラマが好きな監督らしい着地でよかったけど、一方で、子供を探す「大義」を持つ2組、ウォレス・コーポレーションとフレイザー率いるレジスタンス集団はフルスイングで投げっぱなし。

ウォレスは厨二病のポエマーでエセ教祖にしか見えないし、レジスタンス集団もポッと出でとってつけた感があり、物語内で上手く機能しないままフェードアウト。奇跡の話はKを動かすためのマクガフィンに過ぎなかったのかと。

Kに相対する敵役としてラヴ1人だと役不足で、サッパーが序盤で早々と消えるのが作劇として物足りない。Kとラヴの水際の戦いもそれまでの贅を尽くした絵作りに比べるとショボく、デッカードが溺れそうになるのは最早ギャグだし、彼が覚醒してKと共にラヴとガチで格闘したらボンクラ映画として輝いたかもしれない。

ウォレスに捕えられてからのデッカードはレイチェルの瞳の色が違う!と啖呵は切るものの終始弱々しい。ハリソン・フォードの老いた外見含め、完膚なきまでに前作のヒーロー像は破壊される。

以前はハリソン・フォードがいない方が映画単体としてスッキリしたのでわ?と思っていたが、今回観直して、ハリソンが老いをさらけ出す演技と覚悟にグッときた(私が年取っただけかも)。

ライアン・ゴズリング演じるKも全くヒーロー然とはしていない。レプリカントを「解任」させる仕事も冒頭の1人だけで、ジョシの命令で奇跡の子供を探す途上で職務放棄し、自分探しの旅へ。

Kもラヴも精神的に幼く、レプリカントは原理上、成熟できない。彼らの逡巡や悩みは、人間への羨望、人間に近づきたいという欲望から生まれるが、現実には権力者の道具で奴隷でしかない。

気怠くロックグラスを持ち自分を持て余し気味なマダムことジョシ(女史?上司?)はいかにもリドリーが好みそうな熟女だが、じゃあ彼女も成熟したオトナかというとそうは見えない。

ショーン・ヤングに限りなく似せてるがどこか違うレイチェル(ローグ・ワンのレイアにも通じる、不気味の谷を超えてもなお超えられない壁)。原作者のディックの言うシミュラクラ、ニセモノでしかない彼女に前作のオーラはなく、文字通り当て馬として退場。

シンジっぽいK(皆にスキンジョブと虐められ、自分探しに夢中)。アスカっぽいラヴ(私は最上のエンジェルと呟く、勝ち気で激情派)。ジョイはレイ(あるいはアナがレイ?)、ジョシはミサト、レイチェルはユイ、デッカードはゲンドウ?テーマは父親との和解で、2049はシン・エヴァ?(適当)

アニメとの比較で言うと、本作は攻殻機動隊の続編、イノセンスの立ち位置にも似てる。よりアート志向で、景色は寒々しく、タルコフスキーが好きで、犬も出てくる。たぶんドゥニ監督、押井守に影響受けてそう。

サイバーパンクにありがちなやさぐれキャラばかりの本作で、記憶製造者というディック直系で、汚れた世間から隔離され純粋培養されたようなアナは物語から良くも悪くも浮いてしまってる。

Kの記憶を覗いた時に泣くのも取ってつけたようで安っぽい(ラヴもジョイも涙を流す)。元々自分の記憶だとわかってるはずだから、もっと違う反応があってもいい。ステリン研究所のエクス・マキナみたいなクリーンな絵は、前作のユニコーン+森+自然光という植え付けられた記憶とつながる。

ラスト。Kはデッカードを助け、ロイ・バッティと似た者同士に。無償のギブでテイクはないことを知っての2人の行為は人間らしさの極北と言える(ここで定義される人間らしさが果たして本当にそうなのかはまた別問題)。

雪降る階段で横になるKにTears In The Rainがカブる。ヴァンゲリスにはありハンス・ジマーにはない確かな叙情性。誰もが観たかったブレードランナーの現出。ラストカットがハリソンの顔面なのは本作が彼に依拠して成立してることの衒いのない告白で、蛇足に感じる。

K(とデッカード)の物語としてはキッチリ描き切った感はあるが、それ以外のキャラやサイドストーリーがとっ散らかってしまい、求心力が弱い。やっぱりデッカードを減らして、ジョイ、アナ、サッパー、ウォレス辺りをKに絡めて深掘りしてほしかったかも。元々、本編は2部作として企画されたらしいので、このイフは不毛なだけだが。

群像劇、キャラの采配としては、監督の次作、デューンの方が原作ありきという違いもあるが、ずっとこなれてると思う。

サイバーパンクという鬼門に真面目で優等生なドゥニ監督が挑んだ結果、前作を特徴づけたB級感やノワール感、カッ飛んだエッジーさといった香辛料的な要素が目減りし、近未来というか現(在としての)未来のプレゼンテーションとしてスッキリと過不足なくまとまった。二郎系ラーメンが鶏清湯ラーメンになったみたいな(上手いこと言った風)。

エンタメとアートの橋渡し的なあり方としても、成功してるかはともかく、とても好きな部類。冗長でクドいけど(この文章が)。2つで十分ですよという声がどこからともなく聞こえなくもなく。
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