きょんちゃみ

ジーザス・クライスト=スーパースターのきょんちゃみのレビュー・感想・評価

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ニーチェが使う「この人をみよ」という言葉、これはそもそもはピラトがイエスを指して使った言葉だそうです。やはりニーチェはイエスのことが好きなのだろうな、と想像します。

さて、
https://youtu.be/NEmScsUkbo4?si=SgupK24l80GwUdUC


この映画のサウンドトラックがYouTubeにあったから聴きましたが、ヘロデ王のシーンがけっこう心に残りました。マリアの独唱とイエスの独唱もかなりよかったです。

なぜこのヘロデ王のシーンでイエスが奇跡を起こさないかというと、

⓪イエスは単なる人間だから奇跡など起こせないから、という当たり前の理由

以外にも、以下のふたつの理由が考えられるとおもう。

①イエスは、人々のために石ころをパンに変える奇跡などをこれまでに何度も起こしてきたわけだが、もしヘロデ王の「この水をワインにしてみろ」「水の上を歩いてみろ」という呼びかけに答えれば、イエスは人々のためにではなく「自分が神の子であることを証明するために」水をワインに変えることになる。この場合、イエスは「イエスが神の子であること」を疑う立場を考慮することになる。「証明」は、証明すべきことが偽ではないのかという「疑い」に対してなされる行為であり、純粋な信頼がある場合には「証明」は不要なはずである。イエスは、自分が神の子であると自分でも信じているならば、証明の必要はないとしてヘロデ王を退けねばならなかった。つまり、自分が神の子であることが疑い得るものだと認めるわけにはいかなかったからという理由。

②イエスは人々が自由意志の発揮によって人々が信仰に目覚めることを期待しており、パンやワインに目がくらんでついてくるというのではダメだと思ったからという理由。

ところで、こちらの②のほうはドストエフスキーが書いた本の中に出てきます。

「お前は世の中に出て行こうと望んで、自由の約束とやらを土産に、手ぶらで行こうとしている。ところが人間たちはもともと単純で、生まれつき無作法なため、その約束の意味を理解することもできず、もっぱら恐れ、こわがっている始末だ。なぜなら、人間と人間社会にとって、自由ほど堪えがたいものは、いまだかつて何一つなかったからなのだ。この裸の焼け野原の石ころが見えるか?この石ころをパンに変えてみるがいい、そうすれば人類は感謝にみちた従順な羊の群れのように、お前のあとについて走りだすことだろう。もっともお前が手を引っ込めて、彼らにパンを与えるのはやめはせぬかと、永久に震えおののきながらではあるがね。ところがお前は人間から自由を奪うことを望まず、この提案をしりぞけた。服従がパンで買われたものなら、何の自由があろうか、と判断したからだ。」(『カラマーゾフの兄弟』)

という話です。

ところで、

https://youtu.be/9MFsNSPcESg?si=R5GR-QXET4wZx6t1

マリアは歌の中で、イエスのことを、
He's a man. He's just a man.
彼は人間よ。ただの人間。

と言っています。しかし他の男たちとは違い、自分でも不思議なほどの(=そのコントロールの効かなさが怖くなるほどの)愛の力を教えてくれた男だと思っているようですね。





【イエスはそもそも説教の仕方がうまい】
イエスは
「良いことをしなさい!」
と説いたのではないと思う。

「そもそもカスであるあなたに良いことが、ごくたまにできているのは、すでにあなたが救われており、力を与えられているからなのです。もう救われているあなたは、いま以上にもっと富を集めることによって、これ以上幸せに、あるいは有力になろうとしなくても大丈夫なはずです。なにせあなたは、どんな富よりも凄い力をもつ、神様に愛されたのですから。だからあなたの蓄えた富をすべての貧しい人に配ってきなさい。あなたは、もう救われているので、そのような非合理なことをしても、ぜんぜん大丈夫なはずですよね。」

と説いたのがイエスだよね。

この後者の発言を聞いて善行をする人は、結果的に「良いことをしなさい!」という前者の発言を聞いて善行をしている人と多分、はたから見ていると区別がつかないかもしれない。だってどっちも善行をしている人に見えるから。

でも、この後者のほうの教えのヤバさは、

「良いことをしなさい」

と言われても余裕で反発できたヤンキーとかが、このイエスの教えを聞くと急激に回心するところだよね(というのも、自分が実は担任の先生や親や友達から愛されてきたのだと気付きやすいのは、優等生よりもむしろ、さんざん悪事を働きつつもその都度許してもらえてきた来歴のある悪ガキたちのほうだから)。

『百万回生きたネコ』という絵本はこのことを描いた作品だと思う。

「これほど愛されてきたのだからもう大丈夫だと思った人だけが真の自己肯定感を得られて、それゆえに他人に自分のものすべてを与えられる人になってしまう(=自己愛とは他者からの贈与物である)」

という思想こそがキリスト教の核心だと、実際にそう思えてくる。

イエスがやったのは、「幸せになりたかったら、善行をするべきだ」という規範命題ではなくて、「幸せだと気づけた人は善行をしてしまうようになっている」という記述命題を語るってこと。で、その事実の記述が、図らずも、「その奇跡的事実を尊重(=踏襲あるいは模倣)せねば」という方向へと人を赴かせてしまう。この構造を、イエスはなんとなく分かっていたのかな。

「逆説的だが、「在ること」それ自体の事実的描写は、それが尊重されるべきことをおのずから要請している。」(p.662)という僕の先生の言葉を思い出さざるを得ない。



【キリスト教を私はどう理解してきたか】

①愛されなかった人は愛せない。「自分ばっかり損しているのが嫌だ」という気持ちと、「自分の過去を良き物語にしたい」という気持ちが他人を愛することを阻む。つまり、愛されなかった人は愛せない。

②ダメ人間ほど愛されていることに気づきやすい。愛されてきた(と気づいた)人は、「自分も他人も愛せる人」になる。つまり、愛された人は愛せる。

③自己だけが自己を愛しているだけでは自己愛は完成しない。他人に愛してもらった自己を肯定するのが完成した自己愛の姿であり、これは利他性と両立する。

④動物は自分を犠牲にして他個体を救うという行動を、むしろする。カマキリのオスはメスのために自らを犠牲にする。動物行動学的には、知恵をつけた生命体はだんだん利己的になる傾向がある。だから、キリスト教は、進化論的な生命原理に回帰するように迫っているというようにも見えるのである。人が命を捨てるとき(例えば溺れている人を神父が全力で助けるというとき、あるいは火事場でとんでもない力を人が発揮してしまうというとき)に、その人が異常な興奮を感じるということがもしあるならば、それは実は、命を否定しているのではなく、むしろ生命が先祖返りをしている、つまり「命の本源に触れる」ということが起きているのかもしれないのだ。現代心理学で「自己肯定感は他者からの贈与である」と言う時の、「自己肯定感という意味での自己愛」は、あくまでも「持続的で微弱な肯定的感情がずっと続いていく」というものなのであるが、キリスト教徒が突如覚醒するときの「自己肯定感ゆえの隣人愛」というのは、そのように一挙的に命を燃やすような炎が燃え上がり燃え広がる、というような体験で、この二つは質的に区別すべきだという意見もある。つまり、持続的に「親」から受ける現代的愛と、神から一瞬で燃やされる古代的愛を区別すべきだという意見もあるのだ。
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