こういう詩って音楽的感性に近い。
例えば、ハッとするようなギターリフとか、不意に思い出すフレーズだったり、なんて事ないのに忘れられない景色…いろんな形で現れる。不思議と心の琴線というか、感性に触れてくる表現とか描写。
この映画にそれを感じたかと問われると、ちょっと違うんだけど…間接的にそれを再認識させてくれた気がする。
喧騒の中、誰にも届かない呟きとか。
心の中の、独白…みたいなもの。
最果タヒさん。現代詩の詩人。
ぼんやりとしたイメージは、内面世界というか…閉じた場所。そこから外側を見ている…今を観測してるような人。
石井裕也監督の感性で撮られた映像だからかな…どこか希釈された表現って印象を受けた。爽やかな読了感が、その一因なのかも。ひとつの解釈を見た気分だった。
同じく詩劇のエンドレス・ポエトリーで、ホドロフスキーは自らの言葉を自らの感性で圧倒的な表現に結晶化させていた。
俺を見ろ!って迫力がありました。
混じり気のない自分と、他者の語る自分の違いって感じなのかもしれない。この違いも興味深いし、どちらも否定したくはない。対比が必要な訳でもないですが。
なんというか…言葉と、映像と、音と…
それぞれが役割を担ってる。意味がある。
また変な喩えになるけど…
ツギハギだらけのアスファルトの上を、沢山の荷物を載せたトラックが通り抜ける音や、遠くの工事現場から微かに聴こえる金属音とか。
雑音…と言ってしまえば、そうかも。
でも、誰かが何かをしてる音。
普段は意識の外側にある、誰かの存在。
無自覚に閉じてる自分を自覚する。
時に絵画や映画や音楽、詩のような芸術は稀有な感覚を与えてくれる。他の日常では見つからない『気付き』みたいなもの。
別に閉じてるのを開いてくれる訳じゃなくて、居るかどうか確かめるのにノックしてくれたみたいな…
そこに居る?
ここに居るよ。ちゃんと。
って、自分も居るって自覚。
大都会の喧騒の中で、誰もがその他大勢になる。でも、私は私。あの人はあの人。
そう考えると、ただすれ違うだけの人にも意味があるかもしれない…なんて思う。
映画のレビューになってないですね(^_^;)
でもほら、それも、私はそういうヤツ…とか、知ってくれてる人もいるんだとか、孤独って自分が作ってんだなとか、ちょっと広く考えられるというか。思考の解放?
そういう物語だったかな…とも思う。
私の解釈としては…ですよ(笑)
人にオススメできるかは別として、個人的にはけっこう気に入りました😊