まりぃくりすてぃ

雪 Neigeのまりぃくりすてぃのレビュー・感想・評価

雪 Neige(1981年製作の映画)
4.0
とうとう “映画鑑賞の最果て” に辿り着こうとしてる私か。
『Neige』(雪。または、白い粉)。このジュリエット・ベルト(公式ファンネーム/ベルト姉さん)の長編初監督作に、あと『Out1』『悪党岬』『Havre』も観ちゃえば、もう栄養充分すぎて、冬眠熊になれそう。。

元々パリやグルノーブルに閉じこもらず地球を股にかけた発想力を持ってたにちがいないベルト姉さん(そういう “広さ” はゴダールやミレールやリヴェット監督作に出てた頃から冗談半分を超えて鮮明に咲きこぼれてたみたい)は、本作で「移民街」にストーリーを這いつくばらせてみせた。

ベルト姉さんが扮した移民街のバーテンダー・アニタは、いろんな弱い人たちに善意を注ぐ “下町の太陽”。恋仲にある空手家や、黒人牧師と陽気にすごしてたけど、気にかけてあげてた音楽好きな黒人青年が、アニタの忠告を聞かずコカイン売買のトラブルで殺されてしまい、彼女は空手家らに協力を求め(気まずくなっちゃったりしながら)、悪の集団に探りを入れていく………………。

ストリップ小屋とかゲーセンとか見世物小屋つき遊園地とか屋台とか、場末ばかりが映される場末映画だが、暴力は最小限。冬場の場末がとにかく背景だから、ふつうみんながフランス映画に期待しちゃうオシャレや陽光は皆無。何とヒロインのアニタは最初から最後まで同じスカート穿きっぱなし。ちょっと寒い。
でも、レゲエ~ダブ系の音楽が常に溢れ、場末にでんと太陽姉さんアニタのお節介が柔らかみを添え続けてるから、殺伐とはしてない。
てか、ベルト姉さんの母性が漲ってる! 役のアニタの母性。それに、監督としての目配りによる母性も!?

てか、ベルト姉さん、40歳ぐらいにみえる。これ撮ったのまだ33か34歳なのに。(えっ、今の私と。。。)
JDぐらいだったデビュー期に既にOLみたくオトナっぽだった彼女だからこう進んだのか、それとも後の大病を先取りしちゃった死相が浮かび始めてたのか。彼女、体力なさそう。。
skの件ですが、冬映画なのに、濃グレイのレザーミニのスリットをとにかくずーっと穿いてて、棒みたいな細い脚の、左モモのチラ見せがずっとずっと。かっこ悪い短ブーツ。
全体として寒くさせる。一部、新橋みたいな線路沿いがあったほかは終始一貫、上野~アメ横っぽ。外国ではあるけど。鑑賞後感は、真冬に不忍池に突き落とされたように寒い。
でもね、アニタの心はずっと温かい!
そんなベルト姉さんの、、
演技者としての光りポイント①は、序盤の空手ジムに乱入してめちゃくちゃフットワークからのサンドバッグぱんぱん(拳じゃなく平手だよ)。お茶目です。
ここ、名作『セリーヌとジュリーは舟でゆく』とかの彼女の弾けっぷりが大好きな鑑賞者なら、心躍ることマチガイなし。こういうことするための女優さんでしょ、とまで。
そして、ここでの、夫ミシェル・ベルト扮する盲目の空手家をからかって彼に吹っ飛ばされてファックユーを送るヴィヴィッドな流れが、俳優夫婦の信頼関係もわかって非常に楽しいです。
ポイント②は、ラスト近くの修羅場の掠れ声の悲鳴絶叫。演技者としてのベルト姉さんの粗雑感と臨場感のどっちが迫ってくるか、大きな見どころ。私は、最初、「何て雑な。ヤケクソな。やっぱ体調悪いんとちゃう?」と思ったけど、二度目に観て「最っ高やん」と。ベルト姉さん、やっぱ凄い!

監督としての力量についても、、
本作が相当なスタートダッシュだったんだな、と納得できる “まとまり度”。全体として。撮影監督・編集担当・音楽担当・共同脚本者たちがどの程度意見を通したのかわからないけど、1981年映画としては及第点以上でしょう。
ただし、冒頭の建物内移動長回しで「え? まさかワンシーンワンカットでずっと行く溝口?」と変に技感を出されて感じ入ろうとしたけれども、そこんとこの手持ちカメラの動きが大変ぎこちなかった上、以後はその技が繰り返されなかったので、「冒頭は何のお試しだったの」。
あとはずっと平凡なカメラワーク。それが途中の、悪党三人カフェ場面だけパンの見せつけ。これもちょっと意味不。
あとまたずっと平凡で、ラストだけ急にアートな主張になった。おそらくエドワード・ヤンは「俺ならナイフでぶっ刺すけどな」と言いながらこの映画のラストを1991年のクーリンチェで真似たにちがいない!
にしても、「起」「承」(あとせいぜい「転」の始まり程度)だけでドラマが終わっちゃったようにも思えて、満足はあるけど悲しい淋しい終わり方。「プロットはほとんどなく、即興主体」という情報もあるけど、私の耳目には、わりと綿密な会話量からして「これはこれでプロット的にも自信作だったんじゃないかな」と。
あと、演出面だけど、市場か量販店みたいなとこで追いかけっこするとこはゲリラ撮影ドキドキのようにもエキストラ統制バッチリのようにもみえるのがけっこう見応え良きだった一方、ピストルで撃たれての後方への跳び方が衝撃より人力ばかりを感じさせて二度とも下手っぽかった。

どっちにしても、かつて、アメ横のコチャコチャした華やかさの中で「定価6500円」と称する桃の香水を「特価1800円」で買わされてワクワクと帰宅後に肌につけてみたら15分以内に匂いがなくなっちゃって「これ、水じゃん。コロンにもならない。さすがアメ横だ……」と落ち込まされたという何年か前の失敗をちょっと私に回想させながら、最後、冬の不忍池の水をぴゃっとかけられたみたいな寒さに気が滅入るみたいな、まだまだやっぱりこの先を観たい、みたいな終わり方だった。

それでも、40歳ぐらいにみえた34歳のベルト姉さんの、母性が、最初から最後まで漲ってて、あー、女性監督ってのは「女です、を売りにしてる人」か「男と同じことやってるだけ」のつまんない人が世に多い中、第三の本当の創造である「女を売りにせず、男と同じことをするでもなく、滲み出る母性が母性本来の無敵さによってすべてに克(か)ってる」というのが本作で既に始まってるようにも思えた。
例えば、日本では有史以来、天照大神を超えるまともな為政者は一人も現れておらず(今後もまあムリでしょ)、つまりは天照大神の完全なる母性はそもそもの絶対的な「太陽」だった。
だから、ベルト姉さんや、エイドリアン・シェリーや、ヤスミン・アフマドが、天に選ばれて揺るぎない良作をほんのいくつかずつ遺して天翔(あまがけ)ってしまったことを、私たちは深く哀しく愛しく受け止めたいし、この世に彼女たちがほんの数十年ずつでもいてくれたことから必ずしっかり強いものを遺志とか学び取って、彼女たちの生まれ変わりみたいな気概さえ持って、ものを殺す側じゃなく産み出す側として、微力ながら私なんかも大きな大きな何かを創りだしていきたいな、と思わされたのでした。


ちなみに、最初に書き並べた『Out1』は、その後のカンヌやロカルノの審査基準に多大な影響を及ぼしたにちがいない12時間半の演劇稽古映画の金字塔で、ジャン・ピエール・レオやエリック・ロメールやビュル・オジエといった錚々たる役者陣の中でベルト姉さんが印象度において優勝しちゃったらしい。(現在、日本では鑑賞困難)
そのベルト姉さんの長編監督二作目『悪党岬』は、80年代フランス映画中でも屈指の野心作らしい。(同じく鑑賞困難)
さらに遺作となった三作目にして最高作の『Havre』のラストシーンは、東洋(日本)と西洋(フランス)とアフリカをローラースケートとキスと音楽で完全融合させてヤスミンの先駆けになったにちがいない。(同じく困難)

タレンタイムも細い目も、クーリンチェも、ハッピーアワーも親密さもドライブマイカーも、ベルト姉さんが命を燃やして80年代末までに取り組んだ上記四作品なくしては生まれ得なかった、という試論を、勝手に書いちゃう。。。。。