ルサチマ

牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件 デジタル・リマスター版のルサチマのレビュー・感想・評価

5.0
2023年11月3日 @109シネマズプレミアム

劇場で見るのは5年ぶり?(もしかしたら6年ぶりかも)坂本龍一セレクションにて上映。

エドワード・ヤンの90年代以降のフィルモグラフィー全体に言えることだが、極めて細かな人物の描き込みがシナリオや企画段階でなされているにもかかわらず、カメラのポジションは人物を全身で入れられるだけの中途半端なフルショットで、かつ中途半端に遠くに設置されるだけでなく、人物は暗闇に沈んでいる。侯孝賢の画面に感じられるような撮影の時間そのものが内包された印象は、ヤンのカメラからは希薄であり、時間も内包せず且つ人物をミクロな眼差しで撮るつもりもない中途半端なカメラの設置の仕方が長らく気に掛かっていたのだが、今年の台北での没後15年の展覧会へ向けて彼の映画を全作見返して行く中で、これはひょっとすると『ヤンヤン』の冒頭で提示される監視カメラのポジションだったのではないかという気がしている。さらにいうと単なる監視カメラというより、『クーリンチェ』の場合は撮影時から舞台設定の60年代に、すなわち未来から送り込まれた監視カメラという印象を感じている。
『クーリンチェ』の終盤、小馬の豪勢な自宅を訪ねた時、カメラが捉えるのは中華様式を兼ね備えた豪勢な日本家屋であり、人物たちは遠巻きからそこへフレームインしてくる。これはまずヤンが当時の外省人たちが暮らす生活=政治の制度にカメラを向け、極端な言い方をすれば人物はそこに放り込むだけという俯瞰した監視の眼差しで捉えた印象を与えるものだ。
これはまだ推測の域を出ない実例の一つでしかないのだが、今回劇場で見直してこの見方を更に補強する証拠として映画の序盤、小四の家での土曜日の朝の生活描かれる最初の場面でさりげなく時間と空間の演出が仕掛けられていたことを発見し驚嘆した。その場面で仕掛けられたさりげなくも然し間違いなく決定的な時間と空間の演出というのは、朝の身支度に1人遅れた小四が押し入れの布団から起き上がる様子を捉えた直後、カメラが自ずとパンし、小四の暮らす日本家屋の廊下でピタッとカメラの動きが静止すると突如不自然なカットの繋ぎ目が一瞬感じられ、その次の瞬間、建国中学の制服にいつのまにか着替えた小四がフレームインしてくるというものだ。つまり、ここでヤンはジャンプカットをさりげなく忍び込ませ、小四の身支度を省略しているにもかかわらず、あくまでワンカットの中での時間軸のものとして装うという、映画でしかなし得ない時空間の虚構世界を立ち上げている。この時空間の省略と、カメラの自動的なパン、そしてその間でなされる人物のフレームアウト/イン。ここでの演出は、ヤンの長回し(のはずの)カメラに、撮影の実際の時間が内包されてない奇妙な印象を与える決定的な証拠として指摘されるべきものだ。未来から送り込んだ監視カメラゆえ、ヤンはどこにカメラを設置し、どこに動けば出来事すなわち、事件の推移がなされるかを知っている。しかし監視カメラであるが故カメラ自身は身を潜めねばならず、過度に人物に寄り添うでもなく、中途半端なルーズさによって人物の出入りを捉えなければならない。
ここでのヤンの制約の与え方は、単に映画的に決まったフレーミングを作り出す中で生じる制約をより複雑化したものにさえ感じる。フレームは制限されたルーズさという矛盾を生み、且つそのルーズさによって活劇化をも、さらには美学的な時間/空間の描き方をも拒まねばならない過酷なものだからだ。然しそれによって映画そのものに活力が失われてはならず、映画の活力を担保するのは光と闇、そしてそこに出入りする被写体の強度(自然や美術、衣装も当然当てはまる)でしかない。
これを撮影の半年前までカメラを見たことがあるのはたった7人しかいないという素人集団が引き受ける困難は想像しただけで途方もない大仕事だ。

では、その映画の活力の一つの要素である光と闇について。これはこの映画について散々語られ尽くしていることであるが、今回改めて見て興味深いのは、ラストの小四の小明殺害だけ、光が一見関与してないように見えるということだった。然しそれはのちに説明するように結果的に光との関連で捉えざるを得ないものなのだが、それではこの映画の中における光が担う役割がいかなるものか確認しつつ、クライマックスでなされた光と一見無縁の、というより光の裏側に潜む闇の深淵がいかなる形で表象されていたかについてやや駆け足になるのを承知で確認し、整理してみる。

映画の中盤、小四の「良き友達」であり、ほとんど生き写しのようなハニーが殺害される場面ではハニーは車のヘッドライトに照らされて死ぬ。そしてそのハニー殺害に対する報復で山東が殺害される場面でも、懐中電灯のみが山東を照らし出し、死へと導くように、この映画の中で光は死と結びつく強烈なモチーフだ(これは筒井武文も指摘している)。だが、もう一つ小四の懐中電灯がそもそも学校の隣の映画のスタジオから盗んだもので、スタジオの代役オーディションにやってきた小明がライトに照らされながら涙の演技を披露し、演出家の「カット!」の声と共に堪えきていた笑みを浮かべたように、光は人物の別の側面を照らすものとしても機能する点も見落としてはならない。
とはいえ、人工的な光が照らし出す別のヴィジョンというものが真理かどうかは極めて危ういことを小四は知っていて、それ故に彼女の演技を自然と絶賛する演出家に対して「真理を見抜けず何が映画だ!」と言い放つとともに映画の冒頭から持ち続けていた懐中電灯を放り出し、(日本人女性の自殺用)短刀へ持ち替える。
小四が小明を殺害する場面では彼らに人工的な光はほとんど当たらず、暗がりへと送り込まれるのだが、小四は最早人工的な光を信じておらず、自らが希望の光となることを告白する。とはいえこの告白に対しての小明は「私を変える気?この世界と同じ、何も変わらないのよ」と言い放つことで、プラトンの洞窟の比喩の如く小四の思考する光そのものを疑い、闇へと誘う。光なき暗がりの中で、小四は結局人工的な光がこれまでに死を導いてきたのと同様に小明を殺害してしまう。
しかしそれはこれまでの光の質とは異なる、いわばブラックホールとしての闇であり、その闇を小四たった1人が担っていることこそ恐ろしい。
ここにヤンの送り込んだ未来の監視カメラのアイロニーが見事に込められている。

ちなみにこの殺害場面へ至る終盤、小四が懐中電灯を置き去り殺害するまでの音響効果についても、今回坂本龍一の監修した国内最高峰の音響で鑑賞できたことで大きな発見があったので付け加える。
懐中電灯を捨てることになる学校隣のスタジオで、仲良しの王茂が「一旦今日は帰れ」と告げて教室に戻るため小四と別れるとき、王茂の足音はオフにされる。これまで執拗に人物の足音が強迫観念的に鳴り響いてきたこの映画で足音がオフにされるのはどういうわけか。この直後、例の小明の演技を絶賛する演出家がやってくるとき、足音はオンになっていて姉に向けて手紙を書き連ねていた小四をスタジオの外へ出向かせる契機となる。
そして小四と小明の最後には再び周りの音(クーリンチェを行き交う人々の足音や自転車の音)はオフになり、小明に短刀が突き刺さり倒れた途端それらの音はオンになる。
このクライマックスのシーンで言えるのは、音がオフになる時、この映画のブラックホールとも言える小四にナラティブを集中させ、周りの音は消しさられ、すべて小四の内部に吸収されてしまうのに対し、音の再生が示すのは、小四に与えられていたかに思われるナラティブは実際のところ周縁の世界にあったことを喚起する警鐘のようなもので、画面内外の音の再生はビッグバンのごとく小四の外側の世界が起動することを秘かに告げる。

これほどまで冷徹で救いのないナラティブの付与と剥奪があるか。ヤンの和かな微笑みの裏にはこの極めて冷酷な視線があることを忘れてはならないし、むしろこの冷めた認識とそれを物理的に処理していく知性ゆえに、この映画でどれほど豊かな細部が描かれていたかを改めて確認されなければならない。

たとえば、学校からの帰り道、父と自転車を押しながら帰った道でタバコをきっかけにタバコを扱う近所の店に訪ね、その店主から嫌味を親子揃って言われたこと。

ところが別の日には嫌味な酒乱店主が倒れた時、小四が彼を立場関係なしに救い出そうとしたこと。

反復される道で今度は退学になった小四を気遣い、父がタバコを辞めることを決意するこのことが、実は父がその店を訪ねる機会を失うことを意味すること。

しかし小四の母と長女が再び反復される道を横になって歩く時、彼女たちだけは嫌味な店主に再び会い、そして父の不安定な立場を思いやり、もう一度やり直す機会をその店主から告げられること。

たった一つの道を反復して行き交うことが、どこへ立ち寄るかという選択を変容させ、そのことがふと、人生の設計をも変容させる可能性を持つほどの大きな決断となりえる。
誰もがメディアを通じてしか知り得ない出来事の背後に、多くの事象が存在して、殺人犯の肩書の背後に小四の善行を知る者がいるということを、ヤンが未来から送り込んだ監視カメラは静かに見据え続ける。

おそらくは『ラストエンペラー』に対する批判的な応答であったであろう『クーリンチェ』でヤンが示した世界は、未だ近代化し得てない当地の人間の空気とその文脈だったが、それを一庶民生活を背景に、中国人として語り直そうとした試みの偉大さを今ようやく思い知り、そのことに畏敬せずにいられない。



2017年3月11日 @角川シネマ有楽町

人生の最高傑作。
ルサチマ

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