しゃび

光のしゃびのレビュー・感想・評価

(2017年製作の映画)
3.5
大切なものを失うということ、大切なものを失った世界であっても、そこには光があるということに気づくこと。

その過程には必ず人がいる。

他人と心を通わせることの難しさを描きながら、でもそこには必ず一致点がある、ということを感じさせてくれる作品。

この映画では非常に描くことが難しい「触れる」ことに力点を置いている。不思議なものでこの映画に映しだされる歩道橋の柵や、公園の砂、硬貨・人の顔の質感をとても強く感じることができた。映画がここまで強く、視覚・聴覚以外を刺激することは珍しい。
キスをする行為がお互いに触れる、という行為の1つだということを、改めて強く感じさせる。

河瀬監督の映画は、いろいろな意味で映画を1つ奥のステージへと連れて行ってくれる。


また視覚障がい者用の音声ガイドという、スポットライトが当たることのない少ない分野に焦点を当てたことも興味深い。

元々、映画とは映像と同義だった。映画が物語や音を獲得するのは後の話である。
映画そのもの、と言ってもいい映像を奪われるという事について、私はあまり考えたことがなかった。

「私は、私だけに見える世界をみんなに見せるための機械だ」

とはジガ・ヴェルトフの言葉だが、その見せるという行為を代替しなければならないということ。
まさに難行極まる作業だ。
ほとんどが晴眼者のものであろうFilmarksのレビューだって、同じ映画で百者百様の捉え方があるのに。

美佐子のいらだちは、晴眼者の「伝わっているだろう」というエゴの表れでもあるかもしれない。


ただ、1つ気になったのは、今回の試みが必然的にアップショットを多用せざるを得ないというところ。人の肌の質感までもが伝わってくるアップの連続。
その事で河瀬監督の多くの作品で観られたような、役者がその世界に、人物に入り込んでいく様を見せつけていく要素がやや伝わりづらくなってしまったように思う。最たるプライベート空間であるところの2人の住居も、その全貌や生活感をリアルに感じることができない。

河瀬監督は世界を描く作家ではなく、切り取る作家だと思うが、小さくそして細かく切り取りすぎてしまい、いつものような世界に引き込む力が弱まってしまったように感じた。
永瀬正敏、水崎綾女が他の河瀬作品同様、演技を超えた部分を見せてくれてはいる分、少し残念ではある。


ネタバレ↓

美佐子が雅哉の家を訪れる場面。
捨てられていた封書を巡って一悶着を繰り広げる。少しイラついた美佐子が雅哉に向かってパンチをする仕草をする。雅哉は美佐子が何かをした事に気付く。

「何してんだ」
「別に」
「なんかしたろ」
「え?」
またパンチをする仕草
「何やってんだお前w」

このやり取りで、2人は初めて意思疎通に成功する。緊張のスッと解れた瞬間が気持ちいい。
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