今をときめく是枝監督の初法廷心理サスペンス劇。
前科がある人間を安く買い叩き
食品偽装してまで儲けようとする経営者
その経営者に依存し、娘を差し出して暮らす毒母
状況証拠と自白だけで犯人を決めつけ
時間に追われ
効率よく裁こうとする検察官と裁判官
「裁かれる前提」で被告の減刑の仕事をする弁護士
みんな他人事。
自分の都合のいいように
面倒な事は責任転嫁。
罪を背負う人達を「裁けるもの」とは
誰なのか
葬ろうとしたカナリアの
5羽のうち1羽だけ
自ら「裁く」事をやめ
自然に委ねる三隅
空に逃がしたカナリアは
罪を背負った自分から解放される娘か
親から毎日のように虐待される咲江か
その三隅の想いは
離婚調停で「娘(家族)から解放される」側の弁護士・重森には理解できるのか?
そしてその「解放を赦すもの」に
なれる「器」は三隅にあるのか?
いくらカナリアや焼死体を十字架に象ったとしても
三隅もまた罪を背負う人達でしかない。
留萌での殺人、そして多摩川での殺人
「第3の殺人」とは、誰が誰を殺すのか?
人がひとを裁く、ということの罪は
誰が裁いてくれるのか?
=======
役所広司と広瀬すず、そして斉藤由貴の演技力の凄さが見どころ。
広瀬すずと斉藤由貴は、素の人格面は好きじゃないけど彼女の演技力は凄いと思う(たまにそういう俳優って存在する)。
その演技の起こす化学反応に感化されて
福山雅治も福山らしくなくて良い演技してた(笑)
しかし、せっかくの演技力が昇華出来ているか?と考えると
象徴的な表現が多い&演技に制限がある
そんな印象が強くて、もっと具体的な「罪」と「裁き」のメタファーが欲しい。
フラフラボンヤリしている三隅の供述の中に、彼の揺るがない「裁きへの想い」を見出し難い…それも演出だろうか?
虐待されていると言葉だけで説明するより
もう少し突っ込んだ演技が出来れば
もっと説得力があったのでは?…これも演出?
是枝監督の表現方法として使うイメージが
法廷劇に合うかどうか。
表現を見せたいのか、内包されるテーマを見せたいのか、そこもボンヤリしている気がするが、それも演出なのか?
赤いコートを着た咲江のイメージは
シンドラーのリストを想起させる。
伝えたいことは何となくボンヤリと伝わってくるけど
同じ年に発表された「裁きと赦しと赤のイメージ(判断は鑑賞者に委ねる系)」をテーマにした
アメリカの「スリービルボード」と比較してしまうと
どうしても「日本の映画の制限」というか「ミニマルさ」を感じざるを得ない。
いろいろ惜しい。