カラン

アネットのカランのレビュー・感想・評価

アネット(2021年製作の映画)
4.0
スパークスというバンドが2010年頃のカンヌ映画祭でレオス・カラックスと知り合い、そこでスパークスが『アネット』のアイデアを提案したのだという。彼らが原案、脚本で、曲も全部書いたのだという。


☆疑惑の前置き

たまたまなのだが、ツァイ・ミンリャンの『青春神話』(1992)を観ていて、レオス・カラックスが若い人たちを撮ったアレックス3部作(1983〜91)のことを想起した。それで悲しい気持ちになったのは、『青春神話』の余剰や虚飾を削ぎ落とした純度の高さに対して、アクションやセットが仰々しくて、若い人のエモーションを描くのに十分ではあっても、ぴったりなものになっていなかったかもと、思えたからだ。余剰が嘘っぽいかもと思えた。純粋なものは、絞らないとね。余計なものをとって、混ぜ物なしにしないと純粋じゃないからさ。

こんなことをむにゃむにゃ思っていたところだった。で、『アネット』を見始めた。今の話が『アネット』に関係するかって?『アネット』の人物たちはアレックス3部作よりもずっと年増で、若者ではないじゃないかって?ここでは、本作のタイトルがアネットであるということを指摘しておこう。10代どころではない。

本作はカロリーヌ・シャンプティエさんというフランス人撮影監督である。この人は『ゴダールのマリア』(1985)以後の後期ゴダールを支え、カラックスとは『TOKYO!』と『ホーリーモーターズ』でコンビを組んできた。今回はSony CineAlta Veniceというデジタルカメラである。同じくデジタル撮影を試みた『ホーリーモーターズ』よりもさらに凄みがあると思った。びっちりと画素が詰まっており、モチーフを咥え込んで影という仮象まで具体的に捉えているかのようだ。映像そのものがより重たく、パワフルである。また、3部作の時からだが、闇にファジーな色を放つネオンの彩も過去最高であろう。

しかし、『ポーラX』ほどの透明感と悪魔的な圧力は感じなかったかもしれない。


☆ポジティブ

イントロとラストのラストは素晴らしい。つまりこの映画の皆んなが歌って運動するために集うのがイントロとラストのラストである。くっついて、集まって、拭い去れない何かを描く。

①イントロ
マイクを叩き、話すな、笑うな、屁をするな、息もするなという前置きから始まる。往来の信号やネオンがミキサーでいじった音圧のディスプレイのように赤のノイズが炸裂する。ミュージック・ビデオの製作現場のように、ミキサーがあり、レオス・カラックスが座っている。少女にロシア語だろうか、何か話しかけると、レオス・カラックスにくっつく。ガラス張りのブースの向こうにプレイヤーたち。スパークスの2人が立ち上がり、歌いながら通路から外に出るときには、ヘンリー(アダム・ドライバー)とアン(マリオン・コティヤール)も居る。サンタモニカの夜の通りを皆で練り歩き、また2人が散開していくのを皆で見送る。楽曲そのものはあまり良くない。皆んなで歌うのは楽しいよねっていうだけである。

レオス・カラックスと彼にくっつく少女の佇まいがとてもいい。人間の自我には色々なものがくっついている。分身とか、超自我とか、なんとか。フェリーニの「結婚相談所」(『街の恋』(1953)の第4話)やベルイマンの『野いちご』(1957)や相米慎二の『台風クラブ』(1985)やらは、自我にとって異物だが、おまけのようにくっついている不可解なものを描き出していた。カラックスにくっついている少女は記録係のようにメモをとったりするが、ここはたぶん誤っている。仕事などせず、無為にただくっついているべきだった。まあ、それにしても、くっつき方がいい。誰だ?と。

本作は「Nastyaに捧ぐ」ものである。ナースチャ・ゴルベワ・カラックス(Nastya Golubeva Carax)は、レオス・カラックスと『ポーラX』のイザベル役のカテリーナ・ゴルベワの娘である。2011年にカテリーナ・ゴルベワは44歳で亡くなってしまった。アネットはまずナースチャであり、母アンはカテリーナ・ゴルベワ、そして狂乱のヘンリーはレオス・カラックスということになるのか。

②ラストのラスト
本編が終わり、クレジットが流れる。本編のラストはいまいちである。ゴーストを操作して、アネットが去り、アネット人形と猿のぬいぐるみが残される。人形にぬいぐるみがくっついているのは立派。そのアイディアはいいが、レオス・カラックスのショットとしては、仕上がったものに力強さが足りない。ラストに至って人間を映しすぎなのである。ラストこそ人形フェチショットを決めないとね。

しかし、クレジットの最後で、もう一度、皆が集まってくる。ネオンのように色彩を放つぼんぼりを持って森の道を大勢で歩いて歌っている。このラストのラストは美しく、集まった皆んなが流れて光の葬列のようでもあり、イントロと響き合って素晴らしい効果である。

③ゴースト
アンは水死したので、髪がびちゃびちゃ濡れた、生々のゴーストになる。レオス・カラックスはホラー映画をやるべきである。そっちの方が遊べるし、彼の素晴らしい実験精神に向いている。アレックス3部作も、『ポーラX』も自分が主人公だよ。自分を掘るから業界の裏側にまで視線が伸びてきて、『ホーリーモーターズ』とか本作では、自分も娘も出てきちゃう。自分を模索してるからこそ寡作になっちゃう。もう十分だから同じ主題=自分はやめて、ホラーにいって、低予算デジタルでばんばん不気味なのを撮りながら、フレーミングに革命を起こし続けて、映画史を極めた方がいいと思うな〜、いや、ほんとにさ。


☆ネガティブ

母のアンはオペラ歌手。当然マイクもアンプもスピーカーも使わない、身体が生み出す声だけのアーティストである。オーケストラピットが舞台の大きさと等しいホールで歌う。

父はスタンダップコメディアンで、マイクを使う。だから、彼のステージのシーンではマイクをかなり目立たせる演出になっている。さすがである。

アネットはその2人の子供。マイクを使うのか、使わないのか。アネットは赤ん坊なのにアリアを歌えるので、世界中でフィーバーする。母アンと同じホールでアネットも歌う。だから当然マイクは映らない。しかし、アネットが歌うのを辞めて、引退すると言いだす。引退は巨大なスタジアムで天の河のようにネオンが光る超満員の中で歌うべく、文字通り、降臨する。マイクは映らない。ヘッドセットすら見えない。なぜなら歌わないから!

こういうのを、こけおどし、という。

こうした設定と脚本は、概念的な映画鑑賞者にとっては、いつのまにかアネットが不可能な歌を《歌った》ことにする粉飾の装置なのである。また、オペラ歌手はそもそもマイクは使わないので、嘘すらまともにつけていないのが残念。

アネットが歌えない歌を歌うなら、人形がデジタル加工されたただの人形であることを超越することになる。音楽的に凡庸としかいいようがない映画を、それでもレオス・カラックスが手がけた傑作にするには、アネットが歌う必要がある。断片みたいのではなく、歌いきる必要がある。ミュージカル映画のなかのオペラ歌手役ならば、歌わないのは重大な間違いであるが、歌えず、虚偽に満ちたスタジアムでの引退ショーは、父ヘンリーの犯罪の告発の場に変わる。

このような脚本には、音楽に詳しい人でなくても、注意深い鑑賞者ならば、もしかしてと思うのではないだろうか、書けなかったのか、曲が?、と。スパークスというロックバンドが原案で、脚本と作曲もしたというが、なぜこのロックバンドは天才オペラ歌手の幼児の名をタイトルにした映画で、その歌手に歌わせないという脚本上の選択をするのか。彼らがアリアを書けなかったのであれば、とんだ茶番の、張りぼて映画である。




かくて『青春神話』を観ていて感じた疑念に戻れば、残念ながら、払拭できず。




Blu-rayで視聴。画質、音質とも現在最高のレベル。スピルバーグの『フェイブルマンズ』(2022)に匹敵する。
カラン

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