るる

シェイプ・オブ・ウォーターのるるのネタバレレビュー・内容・結末

3.9

このレビューはネタバレを含みます

アカデミー賞授賞式の中継を見て、お祝い気分で観に行きました。以下、だらだら書きます。覚書。

映画館だと水音に臨場感があって良かったけど、初見が自宅のテレビだったら凡庸な作品に感じたかもな…というのが正直なところ。大きな水槽を眺めているような感覚に陥ったので、テレビ画面を眺めたり、スマホ画面を覗き込んだり、デバイスが変わっても楽しい鑑賞体験ができる映画だと思う。

でも、欲を言えば、どうせなら私は、映画館にいながらにして、まるで水槽の中にいると錯覚するような、そんな映画体験をしたかったんだよな…と思った。
映画館の音響設備のせいというより、ジャイルズが物語る脚本の形式といい、映画内映画の描写といい、きみたち観客はあくまで観客であって、水槽の中には入れない、これは彼らの恋物語、おとぎ話であって、観客のきみたちは観るだけ、没入させない、という作りだった気がする。どうかな。
私が感情移入しきれなかっただけかもしれないけど、作品世界に没入しがちなオタクに対して、あえて、距離を取って見るように促す、監督の采配、という気がした。
そして、それが、一般客ウケの肝、オスカー獲得の布石になった気がする。趣味映画だけど、オタク映画にしない、作為を感じたというか…穿った見方かな。

美女と野獣、人魚姫、シンデレラ、赤い靴…童話からの引用は感じたけれど、
思っていた以上に怪獣映画、怪人映画だった、というのが最初の感想。詳しくないので自信はないけど、ガス人間第一号とか。フランケンシュタインみたいだなと思った。
ああ、怪獣映画だ、デル・トロ作品だ!という感じ。

彼女はもともと、半魚人、人魚だったのか、だからこそ、彼と通じ合えたのか、君は孤独だな、などと言って同情していたけれど、彼らは出会っていなかっただけで、決して孤独ではなかった、これからも孤独ではないのだ…というラストが良かった。

美女と野獣のパロディという意味では、シュレックにも通ずる結末だなと思った。彼らが惹かれ合ったのは、一見、そうは見えなくても、似た者同士だったからなのだ…という。そのロジックが、イザベラとジャイルズ、ゼルダ、ホフステトラー博士ことディミトリにも適用されているあたりが、やはり、上手い、部分なのだろうなあ。彼らの共通点はマイノリティであること…マイノリティ同士は連帯できる…というメッセージの力強さ。

異形の者は人間の社会では暮らせないのだ…と去りゆく姿にロマンチシズムやセンチメンタリズムを感じさせるのは、はみ出し者(オタク)の俺はお前らとは違うのさ…と孤立を気取るダンディズムやルサンチマンであると同時に、相互理解や歩み寄ることを放棄したチャイルディッシュな思想の強化でもあると思うので、

そこを覆すあたり、ああ、デル・トロ監督だ…というか。メキシコ系移民として人種差別が身近にあって、マイノリティとしてどうあるべきか、マジョリティに対してどう立ち向かうべきかを考えているからこそ、生まれてきた作品だと思う。

マイノリティの連帯、歩み寄ることで見えてくるもの、蔑みを他に向けるな、たとえ蔑まれても毅然として立ち向かえ…

きちんと、大人のオタクが創った作品だと思うんだ。でも、毎度のことながら、どうにもツボにはハマらない…なんでなんだろう…センス・オブ・ワンダーはなかった。なんなんだろう、この引っかかりは?

映画館の二階で絵描きと暮らす。ネオンの看板。素敵。青い画面に黄色い字幕、素敵。

シンデレラのガラスの靴ならぬ、赤い靴の踊り子となったイライザが、結末で、靴が片方脱げて人魚となった姿は本当に美しかったと思う。下半身が魚になっても良かったけどな、それじゃセックスできないか、いや、そういう話じゃないんだよな…

ハイヒールのせいで足が痛いのよ、とゼルダによって繰り返されたボヤキが、ちょっと過剰に感じたかな。あんなに繰り返し台詞にするなら、あの結末に至って、もう靴を履かなくても良くなったのだ、ということを、もっとハッキリ見せてくれてもよかったのにな、という…でも、姿が変わっちゃうと、主題からズレちゃうんだろうな。

テレビの後ろに見え隠れしていた猫の存在とか、いろんな情報が、伏線というより、要点として示されている、と感じて、それはそれで心地よかったのだけれど、ツボにハマらなかったと感じたのは、点が線にならなかったから、流れにうまく乗れなかったからかもしれない。
水槽…というか、デル・トロ監督の宝箱の中を覗かせてもらうような映画で、それはそれで贅沢だったけれども。演出というか、映画に流れる時間感覚が肌に合わなかった…ということかも。
川の流れに身をまかせるのではなく、水槽の中で安心するでもなく、終始、半身浴でジャブジャブと水と戯れる感覚だったんだよな…雨に打たれるような不安感もあった…だからこそ、あのタイトル…じゃあ、それでいい、それがいい作品なのかな。

おしゃべりなおばちゃん、ドリームを見たおかげで、オクタヴィア・スペンサーだ!と名前がわかるようになったので、楽しくて嬉しかった。その雑談は、ずっと聞いていられる心地よさかといえば、違うんだけど、イライザの良き友だということがわかる描写で。良かった。

しかし…マイケル・シャノンがキモ怖すぎたよな。なんとも言えん。複雑なキャラ造形。いかにも特撮映画の悪役、怪人っぽくもあり。

ストリックランドの妻とのセックスは一方的で、妻の口を塞ぐ姿はサディスティックで、女の口を塞ぐ男の姿は、実に象徴的で、
先天的に声を上げられない、マイノリティであるイライザへのセクハラ発言は、本当に怖い、気持ち悪い、生々しい描写として迫ってくるように創られていて。
セクハラにピンとこない鈍感な観客に恐怖を突き付けるために、あえて、わざわざ、R18指定レベルの描写を挿入したのかなと思う。metoo 運動やtimesup運動を連想して、少々過剰な演出に感じてしまった。

しかし、同時に、イライザと半魚人の互いを思いやるロマンチックなセックスとは全く違う、対照的な描写としても機能しているあたり、脚本として上手い。

そうなんだよなあ、観ている最中は何故この描写が必要だったのか…? と思ってしまったんだけど、思い返せば、脚本上、全部に意味があるんだよな。
あ、これがSNSで話題になってたR18描写、ボカシか、この程度の描写で目くじらたてなくてもいいのに、と肩透かしを食らった気分だったけど。
でもまあ、R18にこだわらず、R15で全国公開する道を選んでくれて良かったよな。この作品を見て救われる中学生は、きっと日本にも一定数いるしな。

イライザと半魚人のセックス、最初は浴槽で半身浴でイライザに負担がかからない方法で、次は浴室を水で満たして半魚人に負担がかからない方法で、という、2パターンを見せたあたり、本当にえらいと思った。
オタクって、怪獣映画やアクション映画に恋愛描写はいらないとか言いがちだし、観客って、映画で見るならどうせなら綺麗な人たちの綺麗な恋愛を見たい、とか言いがちだけど、
どんなひとであっても恋愛はするし、恋愛ってのは互いを思いやる過程のことなんだよ!!って、ストロングスタイルで殴ってくる感じ。
イライザの自慰シーンといい、真っ当な大人が、恋愛経験に乏しい若者が見ることも想定して作った、真っ当なR18恋愛映画、女性映画という感じがした。

あえて、創り出した混沌の中で、正義を語った映画だと思う。ドリームだとか、ブラックパンサー だとかは、陽性のオタクのための作品で、あるべき正義や真っ当さに辟易しているひとは、そもそも観ない、メインストリームで光り輝く映画だと思う。あれはあれで必要だけれども、混沌の中で悪を語る行為が蔓延している、いま現在の現実へのカウンターとしては、混沌とした、今作のほうが機能しうる…と思った。カオスにはカオスをぶつけんだよ!というか。これは、メインストリームが謳う正しさにノレない、陰性の人間が観て、正義の一端に触れる、荒療治的効果がある作品として、期待された結果の、オスカー授賞なのではないかとすら思った…どうだろう。

その混沌と正義のアンバランスさが、個人的にハマらなかった最大の理由かな…マイノリティの俺たちなりの正義でマジョリティに復讐する、という物語、その剣呑さに慄いてしまった、ということかも…私は自分のことをマイノリティ側の人間だと思っているけれど、ストリックランドが死なないで済む道を模索したい、アメリカの二の舞になって日本でも分断が進むといよいよ怖いと思っているので、マイノリティの勝利に、諸手を挙げて快哉を叫ぶわけにはいかないなあ…という感じ。サブカルにはサブカルの立場だからこそ、できることがある、あったと思うので、怪獣映画がメインストリームに持ち上げられてしまう危惧も感じている…だってなあ、クールジャパンを見ろよ。シン・ゴジラを国策映画のように持ち上げた人々を見ろよ、権威と結びつくことは良いことばかりではないぞ…という。

さておき。ジャイルズ関連の描写が少々雑にも感じてなあ…公民権運動のニュースは見ない、しかし、好きなひとが人種差別主義者であることにはショックを受ける、彼の恋の顛末は時代背景に即して、ほろ苦く、同時に、現代の観客に、思想と行動の不一致を問題提起する描写に感じた。
しかし、愛猫を一匹殺されても半魚人を受け入れる…ヒトとは相容れないかもしれぬ怪獣が、愛猫たちと戯れる姿を見る…あの寛容さは、なかなか持てるものではないと思った。
今この時においては、猫より人間の親友イライザのほうが大事、イライザの恋人を傷つけてはいけない、冷静すぎる優先順位の付け方、大人の判断だとは思ったけれど、ちょっと引っかかってしまった。
画家で、物語の語り手という性質上、監督自身が投影されたキャラクターだと思うので、余計に…あなたのようにはなかなかなれない、という引っかかりかもしれない。

ホフステトラー博士はその点、わかりやすいんだよな。任務を忘れて、怪獣の美しさに惚れ込んでしまった。美しいものを救うためなら、敵国の者とも手を組む、そして、殺される…辛いけど、怪獣のためなら死ねる、ある意味、思い切りがよく、簡単な選択だと思った。
ジャイルズのように、美しくて恐ろしくて厄介なものを受け入れて、共存しようとする、旅立つ怪獣たちの幸せを願って、自分の幸せとする…これは大人のためのおとぎ話、大人として怪獣映画にどう向き合うかの答えとしては完璧だけれど、やっぱり、難しいよ、という気はした。

マイノリティとして、他のマイノリティの幸せを願えるかといえば、現実問題、難しいよ。そうありたいけどさ。

で、やっぱり、ストリックランド、上司との会話が効いてたよな。彼もまた抑圧されているという示唆。大事だ。
しかし「私はいつまで"まとも"でいればいいのか」って、お前、全然まともじゃないだろ!? 白人男性で円満家庭もちでマジョリティの権化みたいな存在だけど、サディストの差別主義者で欠陥人間じゃないか!? …と言いたくなるようにも作られてる…同情はできない。
彼なりに『ポジティブシンキングのための本』を読んだりしているのが、ホラーじみていた。シュールだった。

彼もまた上からの抑圧を受けている、でもだからって、もう同情はできんよ、そういう時代じゃないよ、変わろうとしてください、ということなんだろうなあ。アカデミー作品賞だもんな。決定打だ。ストリックランドのように他者を加害するな、ホフステトラーのように犬死にするな、ジャイルズのように寛容であれ、ゼルダのように優しくあれ、イライザのように毅然として、強くあれ、ということなんだろうなあ。

イライザの見違えるような姿には本当に、こう言ってはなんだけど、憧れた。観ている最中は苦笑してしまったけれど、うん…私もあんなふうに立ち向かえたら良かった、と記憶を刺激された。憧れる。

そうそう、何故全編に渡って青みがかった画面、ティールカラーにこだわったのかが、鑑賞中はうまく読み取れなかったんだよね。
恐らく処女だったのであろうイライザは、半魚人とのセックスを経て洋服が赤くなり、結末に至って水の中で血の赤が際立ち…ティールカラーと赤色の組み合わせが単純に美しいから?
それとも、ティールカラーで画面を彩ることで、陸の上でも水中にいるようだと錯覚させるため? イライザは陸の上でも水の中でも人魚姫だった、ということかな…そして、タイトル…そうか。

そうか。キャデラックはティールカラー、鴨の羽色で、水の色…? 半魚人を拷問して赤い血を身にまとっていたストリックランドは、雨に打たれるティールカラーのキャデラックの中、水の中で指を黒く腐らせてしまった、せっかくイライザに拾ってもらったのに、妻にも心配されていたのに、赤い血まみれの指を、黒く…
入れ替わるように、イライザはその身に赤をまとうようになり、自信をつけることで、ストリックランドに手話でFUCKYOUと伝えた、一方で、ストリックランドは指を失うことで、イライザに手話でLOVEと伝えるすべを失った…?
結末に至って、イライザの呻き声喘ぎ声を聴きたいと言っていた彼は、半魚人に喉を切り裂かれ、声を上げることもできず死んでいく…

なんという、容赦のない、立場の逆転なのか…ストリックランド、かつてのマジョリティがいまや…なんという…

こう、マイノリティからマジョリティへの逆襲、という感じがして、監督の持つ、負のエネルギーを感じた気がして、でもその気持ちは否定できない、わかるよ、あんなやつ、ぶっ殺したいよね、でも…という。

そうそうそう、彼女は何故、半魚人に惹かれたのか。最初のキッカケがわからなくて、モヤッとしたんだけれど、あの結末なら、そうか…見た目に惚れたとか、なにか理由があって惚れたわけじゃないと示さなければならないから、ハッとするような、そういう描写はできなかったわけだ。ただ、同じだったから。本当に理屈じゃない、フィーリングが合ったんだ…と思った。

何故、ゆで卵なのかも読み取れなかったんだよな。半魚人は卵生だから…? いやいや。

そう、彼を神として語るくだりにもいまいち、ノレなかったんだよな…

「神の姿は白人男性に近いはずで、黒人女性の姿ではない、ましてや異形のはずは…」時代背景も含んだ描写、キリスト教保守派、白人至上主義者の根幹にある部分。
これに対して、いや、神はマイノリティの姿をしているかもしれない、神の姿はモンスターかもしれないと提示するのは、マイノリティに対する寄り添いだとは思う。
黒人のキリスト教徒、ゲイのキリスト教徒がどれだけいると思ってるんだ、神は彼らにとっても平等に神なのだから、どんな姿をしているかを、お前らが決めるな、という痛烈な批判だと思う…のだけれど、

日本人がアニミズム的思想で、ゴジラを自然災害、神として見る感覚とは違って、半魚人にはキリストと同じ治癒能力があって、だから神かもしれない…と定型で語られたことに違和感があったんだよな。

これ、キリスト教圏にとっては必要な「物語の語り直し」で、神話の再解釈だったのだろうとは思うけれど、アマゾンの奥地で神として崇められていた彼は、決してキリストではなかったはずだろう…という思いがどうにも消えなかった。
異国の神を連れてきて、化け物扱いしておいて、いや、やはり彼は、我々が信じる神と同じものだったのかもしれない…なんて、勝手すぎるというか、異教徒の神を横取りしたように見えて、モヤっとした。他宗教の神へのリスペクトが感じられなくて、ああ、一神教の世界観だな…と。

オタクの趣味映画として一段下に見られてきた怪獣映画を、ハリウッド映画の本流として仕立てるために、私たちの愛すべき隣人、怪獣が、キリスト教の神に祀り上げられてしまった、と感じて、うーん。
日本人の私にとって、神とは祭り上げるものではなく、身近にいるものなのだと再認識した。
ゴジラでこれをやらなかったギャレス・エドワーズ監督は偉かったなと思ったし、オリジナル作品でこれをやったギレルモ・デル・トロ監督は偉い、という複雑な気持ち。

完全に余談だけれど、庵野監督は愛すべき怪獣であり神であるゴジラを東京にそびえ立てたけど、デル・トロ監督は愛すべき怪獣を神として天上に旅立たせた…と思うと、対照的で面白いなと。
庵野監督は怪獣を獅子身中の虫として抱え込みこの社会で共存する決断をし、デル・トロ監督は恐ろしい怪獣とともにこの社会から逃げる結末を示した。
怪獣をオタクのオモチャとして考えるか、マイノリティのメタファとして考えるか…
いや、なんだかんだ言って、庵野監督のシン・ゴジラの結末は凄かったと思うんだよね。怪獣を殺さず、逃さず、置いておく。あんなの観たことない。日本人の精神性に、あまりにも沿っていたよね。

半魚人とイライザは、きっともっと生きやすい世界へ旅立っていったけど、残されたジャイルズやゼルダはどうしただろうか。マイノリティとしてこの映画に勇気付けられたかというと、私はそこまで…というのが本音。アカデミー賞取ったことは嬉しいけど、怪獣映画がアカデミー賞を獲るためにはここまでしなくちゃいけないのか、という気はした。
デル・トロ監督の凄みは感じたけど、今後、大丈夫なのかという気も…だってパシフィック・リムみたいな、いかにもリベラルな、陽性のオタク作品を撮り続けて満足できるひとではないでしょ、多分。アングラな世界観をいかに現代的な作品として仕立てるか、そういう意味では期待してるけど、漂白に繋がらないかしら…インディーズとメジャーを上手に行き来していってほしいなと思う。

でもでも、ほんとに好きなポイントはあったのよ。

イライザが歌い始めたとき、涙が出たんだ。これは…ミュージカル映画だ…と思って。台詞にはできない、言葉にはできない、歌にするしかない、あの、感情の高まりに揺さぶられてしまった。ダンサー・イン・ザ・ダークを連想して、イライザの姿は殉教者にも見えて、でも、ちゃんとね、愛する人と出会うことで変化した姿が嬉しかった。

半魚人に名前をつけなかったところ、そこも好きだったよ。
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