高橋

ボヘミアン・ラプソディの高橋のレビュー・感想・評価

ボヘミアン・ラプソディ(2018年製作の映画)
3.0
 ★1=映画ではない、★2=ほんの少し映画、★3=少し映画、★4=映画、★5=すばらしい映画、といった具合にここでは評価しているつもりで、本来なら『ボヘミアン・ラプソディ』は★2くらいにすべきなのだが、それよりひとつ★が多いのは単純に私がQueenの音楽が好きだからであり、事実、あのLIVE AIDの約20分のシーンが終わってしまう頃、涙している。しかし、これは映画を肯定することばではいささかもなく、映画が好きな者ならここで映画が音楽に敗北した瞬間を目の当たりにしたことを認めなければなるまい。と、映画と音楽についての話は最後に回すとして……。
 まずは『ボヘミアン・ラプソディ』の物語についてであるが、これを支配しているのは、フレディとメアリとの、そしてポールとの距離のドラマである。メアリとの距離が近ければフレディはバンドで上手くいくし、逆にポールとの距離が近くなれば絶望的な状況に落ちていく。最初、フレディはメアリとベッドで横になるとき、のちに「Bohemian Rhapsody」となるピアノの旋律を弾くし、ソファでプロポーズするときには、メンバーが唐突に部屋に入ってきて全米ツアーが決まったことを知らせる。しかし、全米ツアー中のシーンから、メアリは電話の向こう側へと追いやられてしまう。代わりにフレディの横に存在することになるのは、BBCでの「Killer Queen」収録時にメアリの隣でフレディへの視線を現しはじめたポールであり、かれはメアリへの曲「Love Of My Life」を作曲中のフレディにキスをすることでその座を獲得するのである。もはや、メアリはフレディの隣にはいられない。フレディがライブから帰ってくると、フレディとメアリはふたりでソファに座ってテレビを見るのであるが、そこに映っているのはライブで披露した「Love Of My Life」である。アルバム「A Night At Thd Opera」に収録されているピアノ伴奏による原曲の美しくも切ないあの雰囲気は、ライブバージョンのそれではギターアレンジされ、観客みんなで大合唱することによってまったく変容しており、つまりメアリの曲ではなくなっている。フレディはそのライブシーンが映るテレビの画面から目をそらしてしまい、メアリはその身振りを決して見逃さないのだ。ふたりの共同生活は解消され、隣り合ったふたつの屋敷にそれぞれが住むことになり、ここでもフレディはメアリに電話をかけ、自室の窓からメアリがいる隣の屋敷の窓を見あげるのだが、このショットにおける窓と窓とを隔てる空間とその上下の差はそのままかれらの距離を感じさせるものになっている(しかし、ブライアン・シンガーは「電話」をいまいち映画的に使いこなせておらず、というのも電話をかけているフレディ側だけをカメラで捉えておけば、もう片方はその不在性によって遠い印象を与えられるはずであるのに、毎回毎回律儀に両方の電話口を撮っている。かれは編集による視線の合一という錯覚を信じているタイプだろう)。そして、しばらくポールはフレディに憑いてまわり、バンドがほとんど解散まで追いやられてしまう口論のシーンで、ロジャーの肩にぽんっと手を置くポールの気持ち悪さといったらなく、まるで接触によってフレディとQueenを崩壊させようとしているようである。しかし、ふたたびメアリがフレディの目の前に現れることで、この窮地から救われ、LIVE AIDへのQueen出演に繋がる。ポールと決別するときのフレディは、ポールの視線を拒絶するようにかれの方を一度も見ることがない。次のショットで、ポールはそれまでメアリが電話の向こうに追いやられていたようにテレビ画面のなかに閉じ込められる。
 さて、映画と音楽の話である。映画のなかで誰かが歌を歌うなどしはじめたとき、たとえばミュージカルなどであるなら、その歌は完全なパフォーマンスというわけでなく、物語も同時に進行していたりするのだから、カメラはまだその物語を運ぶようなショットを撮ることで、音楽に対抗することができる。しかし、これがライブなどのステージでバンドが楽曲を披露する場合はどうか、これは完全にパフォーマンスである。果たしてカメラはその音楽の豊かさ以上のなにかを映すことができるであろうか。賢明な者ならば、その無力さを受け入れてカメラにステージを静かに見つめさせるのだろう。あるいは、無駄なあがきをして、カメラはあちこちに立ち位置を変えてゆき、終いにはすこし時空間を変えてみたりして、過去をフラッシュバックさせるかもしれないが、所詮はその程度のことしかできないのである。『ボヘミアン・ラプソディ』の最大の見せ場はラストのLIVE AIDに設定されてはいるのだが、しかしカメラは出演者の表情を捉え、観客の表情を捉え、それだけだとこれを映画にする必要があるのか不安なので、スタジアムから離れて酒場や家のテレビ中継を見ている視聴者を映してみたりするのみで、まるで音楽とイーブンな関係にない。そこではひたすらQueenの音楽が賞揚されるばかりで、しかも映画の無力さをいまいち感じとっていない作り手によるどうということない映像を見ることになるのである。
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