高橋

来るの高橋のレビュー・感想・評価

来る(2018年製作の映画)
1.0
 中島哲也という監督の映画から、映画らしさを見つけだすのは困難である。というのも、まずカット割りが多すぎて、たとえそこにすばらしいショットが紛れ込んでいたとしても、それに我々の視線が触れるのはわずかな時間でしかないからであるし、ならばかれはそのすばらしいショットを意図的に隠しているのかというと、そういうわけでもなく、かれの関心はもっぱら「人間」であって、その人間の「物語」を編集によっていかに語るかということであるから、ひとつひとつの画のちからというものは信じられていない。
『来る』のどこに恐怖映画ののっぴきならない怖ろしさや不気味さ、忌々しさがあったであろうか。画面に映しだされるのはひたすら人間の暗部であり、そんな過去からあたりまえに存在しつづけている問題を取りあげたところで、いまさらそれが作家性として認められるわけもなく(それを作家性とする風潮があるが、概してそのようなひとたちは画面を気にしていない)、むしろ大げさな表情の演技をする俳優の醜い顔が、とりわけ前半は妻夫木聡のやりすぎな顔があるだけである。同僚の高梨が会社のロビーで血を流すシーンにしても、柴田理恵演じる霊能者が食堂で腕をもぎとられるシーンにしても、普通の状態の人物のショットと血で濡れている状態のショットが編集によって繋がれることで、なにかが起きたのだとわかるわけだが、映画は変化や変容、つまりは運動を捉えるものであって、ここではそれによって恐怖というエモーションが生まれもしたのではないかと思いもするし(忌まわしさを感じさせることのできそうな噛み傷は一度も見られることがなく、虐待を連想させるアザばかりが強調されている)、またこのように編集を映画独自の手法として積極的に使用するのは避けるべきで、編集はカメラの限界が明らかになるところで現れるべきもので、その限界を判断し決定するときに監督のひとつの作家性がでるのだから、最初から編集に頼っているようでは映像作家ではあっても映画作家ではない。『来る』はまったく怖くないから、同じホラー映画ならいまは『へレディタリー』を見たほうがいい。すばらしいB級映画である。
高橋

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