はまたに

ラブレスのはまたにのレビュー・感想・評価

ラブレス(2017年製作の映画)
4.0
捜索のさなか、父と思われる男も、母であろう女も、彼の名を口にしなかった。叫ばないどころか、呼びさえしなかった。それだけでもう、十分だ。

ロシアのアンドレイ・スビャギンツェフという監督。彼の作品は初見だが、なるほど鬼才である。我が子の名前を発しない。それだけで痛ましいまでの“Loveless”を端的に表現してしまう。大胆であり、無欠である。

日常生活において、名前とは他者とそうではない誰かを分けるための識別記号でしかない。一方で、人生のいくつもの場面において、それは何よりも雄弁な感情の容れ物にもなりうる。愛してる以上に愛を伝え、くたばれ以上の憤怒を込める。

我が子が失踪した。捜索する。そんな場面において、アレクセイという固有名詞は祈りの色合いと熱を帯びるはずである。それがなかった。感情のグラデーションを纏うことすら許されず、ただただ何もなかった。それだけで、もう十分である。

映画鑑賞において、物語の過半で結末が予見されることはままある。作品の側からそれを示唆してくることもある。本作が異質なのは、エンディングがそこかしこに転がっていることだ。込めるべき容器はどこにもない。事が起きてから何度もそれが繰り返される。散りばめられたエンディングは律をなし、定められた終局を迎える。幕が降りたかどうかだけが違いである。話はとうの前から終わっていた。

物語に祈りはなかったが、愛は虚しく込められる。夫婦と思しき破綻した男女には、それぞれ別のパートナーがいる。ここで名前は愛の容れ物。一時的には。しかし、父と思われる男は「男はいつまでたっても子供なのよ」を地で行き、母であろう女も同じ逃避を(違う形で)繰り返す。

私の記憶が確かであれば、女は新しいパートナーの名前をも呼ばない。父と思われる幼稚な男は新しい若い女と名を呼び合うが、彼女はそうではない。年増のパートナーは彼女の名を様々に声にするが、彼女の側ではそうはしない。ランニングマシンでの表情が物語る。愛だと思っていたものが、またしても逃避の口実であったことを。そうして、夫婦であったろう2人の男女は再び破綻の軌道に入る。

ニュースでは終末論が流れ、戦地となったウクライナでは多くの命が失われてゆく。しかし、世界が終わらなくとも、戦争が起きなくとも、血も流さずに死んでいく者たちがいる。ベビーベッドに子を押し付けながら、ひと時も続かないランニングマシンに身を委ねながら、生きながらにして死んでいる者たちがいる。


アレクセイ!!!


叫ばなかったのは、そこに込めるべき愛がなかったから。と同時に、彼ら自身も空っぽだったからである。

これは2人のひとでなしを描いた話ではない。世界中のどこにでも転がっている話。怖いのは、愛は不在で空っぽでも、憎悪と嫌悪だけは脈々と息づいているということ。黒い木々のように。それらが律をなして連なれば、人間社会はある終局を迎えるのかもしれない。

監督はそこに、警鐘を鳴らしたりはしない。むしろ廃墟の美しさを見出しているようだ。破綻、終局、空虚の美。そうでなければ、こんな詩的なフィルムになりはしない。
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