これは、テリー・ギリアムの作品としては個人的にいちばん好きになったかも。
冒頭のクレジットに、「25年以上の長きにわたる製作…そして頓挫…。そして今…。a Terry Gilliam film」と書かれた文字を見るだけで、すでに万感の思いが込み上げて、拍手をしたくなる。
(カイロ・レン君が出てるから「A long time ago in a galaxy far, far away...」もちょっと連想しますね)
テリー・ギリアムは「ドン・キホーテ」の映画化に四半世紀以上に亙り何度も挑戦して、そのたびに失敗してきた。その事実を知っていると、本作が完成にこぎつけたことの意味は非常に大きい。
テリー・ギリアムの最初の挑戦は1998年。
これはわずか6日撮影しただけで、頓挫した。
この経緯はドキュメンタリー映画「ロスト・イン・ラ・マンチャ」に詳らかである。
以来、製作が発表されては資金不足で頓挫することを何度も繰り返し、2017年に撮影されたバージョンが本作としてようやく日の目を見ることとなったのです。
そりゃ、監督だって「満を持して」な字幕も入れたくなるわさ。
最初の企画は製作費40億円の前提で始まった。
最近、大作なら100億円越えが当たり前になったハリウッドじゃ、それは「中規模」に過ぎないんだけど、40億円なんてアメリカ以外じゃ作るのが不可能なビッグバジェット映画ですよ。
だから、製作開始時点ですでに32億円程度まで、予算が縮少された。
(最近、このあたりの規模の映画に気前よく出資してくれてるのがNetflixですね)
ちなみに公開にこぎつけた本作の製作費は20億円程度。
その間の物価上昇を考慮しないで単純計算すると、当初の半額くらいに減ってる。
それは本作が「現代劇のみ」になっているからでしょう。
原案では、主人公トビー(最初の配役はジョニー・デップ)がタイムスリップして、ドン・キホーテと邂逅するという時代物だった。
(タイムスリップっていっていいのかな? ドン・キホーテは史実じゃなくフィクションだけどね)
本作はずーっと現代が舞台なので、大掛かりなセットが不要で、それによって製作費が抑制されたんだろう。
というか、恐らくはテリー・ギリアムの、予算を縮少するための工夫だったんでしょう。
以前の脚本がどんなテーマを持っていたかは知る由がないんだけれど、本作のテーマ性は、オリジナルからは変更されたもの(いや。もっと深層に通底するテリー・ギリアムお得意の「現実と妄想の混在」は同じとしても)じゃないかと思う。
本作は、テリー・ギリアム作品では「フィッシャー・キング」にかなり近い。
「フィッシャー・キング」は、「ラジオDJの浅薄なアジテーションによって、間接的に人生を破壊され狂人となってしまった男に、そのラジオDJが贖罪する物語」でした。
本作は、「映画監督によって、直接的に人生を狂わされてしまった人々に、その映画監督が贖罪する物語」。
よく似てるけど、こっちのほうがより映画製作者にとって、切実なものとなっている。
ハビエルは、トビーが過去に撮った自主映画でドン・キホーテを演じて以来、自分がドン・キホーテだと思い込んだ狂人になってしまった。
ドン・キホーテ自身が、騎士道小説を読み漁ったために自分が騎士だと思い込んでしまった狂人であるため、この設定はレイヤーがさらに1層多いのですね。
もうひとりは田舎娘のアンジェリカ。トビーの映画に出演したせいで「スターになれる」との思いから身を持ち崩してしまった。
本作は最終的にトビーの、この二人への贖罪へと向かっていきます。
これって映画が持つ原罪のひとつですよね。
映画製作がスタジオを飛び出して、ロケーションの時代になってから、連綿と続く原罪。
原罪じゃないな。功罪だな。これで成功する人もいるんだから。
要はあれですよ。
「たまたまロケ地にいた素人に惚れこんで映画に起用する」というやつ。
古くは、イタリアのネオレアリズモ。
ネオレアリズモでは、基本的には素人を使う。
ネオレアリズモの代表監督はロッセリーニです。その作品に惚れこんだイングリッド・バーグマンはロッセリーニの映画に出演し、それどころか不倫関係になった。それで産まれたのがイザベラ・ロッセリーニ。
でも、結局オスカー女優イングリッドは、ズブの素人と演技することに疲れてハリウッドに戻った。
戻ってすぐ、またオスカー獲っちゃったってのが、イングリッドの凄いところだけど。
(そういや本作には「カサブランカ」のラストのセリフの変奏バージョンもあったな)
ともかく、素人を映画に使うのは、ちょくちょくあること。
キアロスタミなんかも素人を使うことを好んだ。
もっと最近でいうと「セデック・バレ」は傑作でしたよね。あれの主役は、ロケ地の道案内をしてくれた素人の牧師さん。映画観てからその事実を知ったら「嘘でしょ?!」ってなるくらい素晴らしい存在感だった。
日本なら、例えば尾野真千子。
「萌の朱雀」のロケハンをしていた河瀨直美の目にたまたま止まって、主演しちゃった。
当時まだ14歳のただの中学生。
尾野真千子の場合は、その後のキャリアを考えれば、「映画の功罪」の「功」のほうですね。
でも、設定上尾野真千子の実年齢とほぼ同じだった、本作のアンジェリカは「罪」のほう。
映画に関わったことで、人生が歪められてしまった。
靴職人のハビエル爺さんも同じ。
これが「ロケーション時代の映画の原罪」です。
つまりね。
我々には、尾野真千子さんだったり、リン・チンタイさんだったり、アハマッドくんだったりの成功例しか見えないけれど、「たまたま映画に出演した素人が人生を狂わされる」なんて例は、おそらく映画史上山ほどあったはずなんですよ。
子役が慢心して身を滅ぼす例なんかも、それにかなり近い位置にありますね。
それに向き合ったのが本作。
少なくとも私は、その意味での映画の原罪を、正面から描いた映画をほかには知らない。
(子役に限って言うなら、シャイア・ラブーフの「ハニーボーイ」が私小説的にそれを描いていたけど)
ちょっと補足しておくと、映画でも演劇でも音楽でも、まあどんな芸術でもいいんだけれど、「自分から惚れこんで、その世界に飛び込んで、芽が出なかった人」なんてそれこそ吐いて捨てるほどいます。
でも、そっちには誰の贖罪もいらないんですよ。だって、本人は覚悟の上なんだから。成功しないのはひとえに自分のせい。
じゃなくって、本作が描いているのは、「映画さえ来なければ、別の人生があったかもしれない人物の失敗」に映画人が向き合って、贖罪することなんです。
これって、ちょっと敷衍すると我々映画ファンにも通じるところがありますよね。
映画という甘美な地獄に惚れこんで、何百時間・何千時間・何万時間もそれに費やす。
「そんだけの時間をほかに注ぎこんでたら、もっと何かを成し遂げられたかもしれない」って思うことありません?
私も時々、ちょこっとだけ思う瞬間がある。
でもさ。
そんなほかの可能性考えても仕方がないじゃん。何万時間も映画の中に浸ってた体験って、もう別に今さらほかのものに交換したくないじゃん。
だから、本作でもアンジェリカは言うのさ。
「あなたの映画に出てなかったら私は一生洗濯女だったかもしれない」
ハビエル爺さんも狂ってたほうが幸せだったんだよね。
ハビエルは、まさにドン・キホーテ自身と同じく、死ぬ間際に正気を取り戻すのです。
狂ったまま(=映画の中にいながら)死ぬほうが幸せなんじゃないかな。
私はちょっと、葦原金次郎をモデルにした筒井さんの「将軍が目覚めた時」も思い出しました。
「フィッシャー・キング」(テリー・ギリアムは脚本を書いてない)が描く贖罪はテリー・ギリアムにとっては客観的なものだった。
本作ではそれを映画監督としてもっと主観的で切実なものとして、語り直したかったのかもしれません。
予算を削減できる「現代パート」のみの物語にしようと工夫した時点で、副次的に思いついた素晴らしいアイデアだったのかもしれません。
いや、テリー・ギリアム自身に素人を映画に巻き込んで狂わせた経験があろうとなかろうと、映画史自身が持つ原罪としてね。
「バンデッドQ」のクレイグ・ワーノックくんは、その後ミュージシャンとしてちゃんと活躍してるみたいだし。
と同時に、上に書いたアンジェリカのセリフは、映画人としてのエクスキューズであり、矜持でもある。
そりゃ、そうですよ、テリー・ギリアムさん!
映画ジャンキーのひとりとして、映画鑑賞に費やした時間も金も、わたしゃ全然後悔してませんもの!
ロッド・スチュアートの歌詞で言うなら「I wouldn't change a thing if I could do it over again」ですよ
THE JAMなら、「But didn't we have a nice time? Oh, wasn't it such a fine time?」ですよ。
ラストの献辞も泣けます。
この名は、四半世紀もかかった本作の、タイトルロールを過去に演じたうち、すでに鬼籍に入った二人のものだから。
これと「キャビン」は、映画という芸術の存在理由そのものに言及した、稀有な傑作です!
唐突にホラー映画の「キャビン」ぶっこんじゃったけど、あの映画に登場する「生贄をいくらでもせがむ邪神」を「我々貪欲な映画ファン」のメタファーだと悟った瞬間、(ホラーなのに)号泣しちゃった私としては、思い出さずにいられないんですよ!
だから、未見の人は、そっちも観てくださいね。(←締まらん締め方だけど、まあいいや!)