「体しか価値ないじゃん」
体の価値。
人格の価値。
関係性の価値。
地位や名誉の価値。
たくさんある価値の中でも、体はとてもわかりやすい価値基準だ。
自分そのものなんかないのではないか。
体の中は空っぽなのではないか。
そのように感じると空虚な気持ちになる。
『少女邂逅』は「そんなことない」と決して言わない。むしろ、本当に体にしか価値がないかのように見せる。
それほどまでに、穂志もえか、モトーラ世理奈は外面的だ。
かろうじて内側を感じさせるのは、穂志もえかの忙しなく動く眼。
痛みを忘れてしまった蚕のような体の中で、眼だけが迷いを示している。
ぼくは人間性は「場」に宿ると思ってる。いくら内省したところで、自分なんてわからない。自分は場にいて初めて表れるからだ。
『少女邂逅』は場を狭く窮屈に描く。
ある教室
ある保健室
ある道
あるカフェ
ある森
ある電話ボックス
場と場は完全に切り離されていて、地続きではないように見える。少女たちを狭い場に閉じ込めているように見える。
窮屈すぎる場からは、人間性が滲み出てこない。
狭い仕切りの中に閉じ込められた理科室の蚕の如く、ただ役割を終えるまでそこにいるだけ。
「地方の若者特有の鬱屈」のような生優しいものではない末期的な症状が、印象的な2人によって美しく描かれた作品だった。
ただ、90分をもたせるには表現のバリエーションが少なく、物足りなくも感じた。
欲を言えば、もう少しパターンが欲しかった。