ベイビー

寝ても覚めてものベイビーのネタバレレビュー・内容・結末

寝ても覚めても(2018年製作の映画)
4.6

このレビューはネタバレを含みます

本当に凄い。見事としか言いようがない。

先日「ドライブ・マイ・カー」を観て、初めて知った濱口竜介監督。この時に、脚本も構成も演出もキャラクターの作り方も全部好きだなぁと感じたので、気になって過去の作品を観てみました。

やっぱり好きです。今作も本当に素晴らしい。まだ濱口監督の作品を2作品しか観ていないのですが、丁寧で厚みのある作品の仕上げ方はもはや巨匠クラス。しかも今作が商業映画デビュー作と言うのですから本当に驚きです。

僕が2作を通して感じたのは、共に主人公が自分の弱さと対峙し、自分を知り、他人と向き合い、明日という未来に向け一歩ずつ歩み出して行くお話だと感じました。訥々とした語り口の中、何処ぞに比喩を忍ばせ、作品の厚みを幾重にも重ねて行く印象があります。

「寝ても覚めても」

直感でこのタイトルを聞くと、なんとなく"甘い恋"のお話のように聞こえてきます。「寝ても覚めても、あの人のことが忘れられない…」というような。

僕が今までこの作品を避けて来たのも、どこかそんな印象があったからこそ。作品自体が恋愛映画なので、そういった直接的なタイトルの捉え方でも差し当たり問題はないのですが、しかしそれだけのタイトル回収に留めてしまうと、この作品の深みが失われてしまい、なんだか勿体ない気がしてしまいます…



以下、勝手な考察。

僕がこの作品を観ていて思い浮かんだのは「胡蝶の夢」という言葉。その意味をWikipediaで調べてみると「夢の中で胡蝶としてひらひらと飛んでいたところ、目が覚めたが、はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、それとも今の自分は蝶が見ている夢なのか、という荘子の説話」とあります。

夢とうつつ、蝶と自分

この物語に当てはめてみると「麦(バク)と亮平」。正確に言えば「麦を愛する朝子と亮平を愛する朝子」の感情が、一つの心の中で行ったり来たりしている。となるのでしょう。

どちらを愛した自分が本当の自分?

花火のように熱く弾ける恋なのか
コーヒーポットのように保温された愛なのか…

おそらく「寝ても覚めても」というタイトルは、この相対する二つの愛で揺れ動く、朝子の心の内を指しているのではないのでしょうか。うたかたな夢のような恋と現実的な幸せとして…

朝子にとって必然とも言える二人との出会い。その出会いには必ず牛腸茂雄さんの写真展が関係して来ます。その個展は「SELF AND OTHERS」というタイトルで、直訳すると「自己と他者」という意味になります。

そこで展示されているのは、個人やカップル、そして双子の姉妹や赤ちゃんなどの様々な被写体が、ジッとこちらを見ているモノクロ写真。朝子は真っ直ぐ作品の前で正対し、その人物たちを見つめています。

この状況を客観視すれば、被写体と朝子は目線の先で結ばれていることになります。それを少し穿ったものの見方をすると、写真の向こう側の被写体が、フレーム越しに朝子を覗き込んでいるようにも捉えられます。

その構図は「胡蝶の夢」そのもの。自己が他者を見ているのか、他者が自分を見ているのか…

朝子が悩む二つの恋愛
対峙する麦と亮平の存在

朝子は麦とそっくりな亮平と付き合い始め、亮平のことをちゃんと好きになっている自分に気付きます。亮平の好きに応え、亮平の好きと向き合おうとしています。それにも関わらず、朝子は一度も亮平の目に視線を向けて「好き」という言葉を投げかけていません。

交際してから5年の月日が流れ、二人は亮平の転勤を機に結婚する意思を固めます。そんな矢先に突然戻って来た麦の存在。周りには平然と振る舞うものの、どこか気持ちの整理がおぼつかない朝子の心。いま彼女が心の中で向き合っているのは、亮平なのか、麦なのか…

しかし、実際に朝子が向き合っているのはそのどちらでもありません。彼女が向き合っているのはいつも自分自身です。

私は本当に亮平のことが好きなのか?
麦に顔が似ているから、亮平を好きになったのか?

そう自問自答をする朝子の心には、自分の気持ちを確かめる自分しかおらず、彼女の見つめる先に他者は存在しないのです。

ここまでの朝子の言動を見ているとマイペース。悪い言い方をすれば、"自己中"、"我儘"、"自分勝手"となるのでしょう。この物語もそれを否定していません。朝子を含むここに出てくるほとんどの人が、彼女がとった行動に深い憤りと怒りを感じています。ですから観ているこちら側もそんな主人公に感情を移せなくて当然です。

それではこの物語は何を言いたかったのでしょう。そのヒントはマヤの劇団が上演するはずだった「野鴨」の中にありそうです。

「野鴨」は1884年に発表された、ヘンリク・イプセン作の戯曲です。

僕は作品の内容を全く知らなかったのでネットで検索したところ、素晴らしい解説ブログが見つかりましたので、そこから一文だけ拝借させていただきます。

この物語をひとことで言うと「嘘のうえに真の幸せはなりえないと信じる『正義病』の男が、貧しくも幸せに暮らす友人の家庭に『真実』を突き付け、友人を欺瞞の生活から救いだそうとする物語」だそうです。

友人に真実を告げてやれば、あの欺瞞に満ちた生活もきっと良くなるはずだ。と信じ込む「正義病」の主人公。その「真実」がのちに悲劇を生みます。

朝子はわざわざ仙台にまでボランティアに行く理由を「間違いでないことをしたかってん」と言います。「正しいことをしたかった」と言えばいいものを、とてもまどろっこしいものの言い方をしています。

この言葉を注意深く掘り下げれば「自分に嘘はつきたくない」と言っているように聞こえます。朝子は別に正しいことをしたいのではなく、自分の心に嘘をつきたくないのです。

それは「野鴨」の主人公の「正義病」と同じです。「嘘のうえに真の幸せはなりえない」と、潜在意識の中で朝子も信じているのでしょう。麦の面影を残したままでは、亮平と幸せになれないと…

そんな自己欺瞞に気付いた朝子は衝動的にある選択をします。それは全てを失う選択です。自分の欺瞞を晴らすべく、自分の"真実"と向き合います。

「本気で他人を受け入れるには、自分の心に正直な折り合いを見つけることが必要だ」

これは濱口監督の後の作品「ドライブ・マイ・カー」に出てくるセリフです。今こうして見てみると、朝子に向けられた言葉にも聞こえてしまいます。朝子にとっての正直な折り合いとは、自分の欺瞞に見切りをつけること。そして、愛に迷わないことです。

北海道に向かう車の中で、改めて麦との再会を喜ぶ朝子。朝子は二人の空白になった時間を埋めるように、麦が旅先でオーロラを見た時の話を聞きたがります。

麦はその光景の美しさを「夢みたいだった」と喩えました。すると朝子は麦の運転する横顔を見ながら、まどろむように呟きます。

「私は今、まるで夢を見ている気がする。…違う、今までの方が全部長い夢だったような気がする。凄く幸せな夢だった。成長したつもりだった。でも目が覚めて、私、何も変わっていなかった…」

ずっと夢の中の存在のように思えた麦が、こうして触れることのできる距離に居る現実。それ故に、亮平との時間が夢だとおもえる錯覚。

それはまるで朝子の胡蝶の夢。麦の存在を実感する朝子は、自分の中でしっかりと答えを出せた気でいます。しかし、そんな蝶がふわふわと舞うような掴みどころもない語り口では、その言葉の記憶もいずれ、うたかたの夢に消えていくのでしょう。

長い旅路でいつの間にか寝てしまう朝子。しばらくして助手席で目覚め、寝ぼけながら朝子は、

「高速降りたの?」

と麦に尋ねます。

振り返ってみると、この言葉は麦と亮平を比較するシークエンスになっています。朝子の問いに「腹が減って、眠くなって、海を見たくなったから降りた」と答える麦。それとは対照に亮平の言葉は「いいからまだ寝てな」と朝子を気遣っていました。

ここでの麦の言葉は朝子(他者)を見ていません。自分の気分からの行動です。一方の亮平の言葉はしっかり朝子(他者)と向き合っています。

これは僕の憶測ですが、朝子はこの逃亡とも言える旅の果てで「自分は麦と同じだ」と感覚的に気づいたのではないのでしょうか。未だ他人を気にせず、自分の夢を食べ続けているだけの麦。それと、自分の衝動でしか動けない自分、しっかり他人と向き合えなかった自分として…

「海、全然見れないや、波の音も聞こえない」

麦は残念そうな顔で朝子に話しかけてます。海が見えない理由は簡単です。津波を防ぐための何キロにも及ぶ長い防潮堤がそこにあるからです。

「ここ登って海を見に行こ」と誘う麦を朝子は引き止め、何か思い詰めた面持ちで「もうこれ以上行けない」と叫びます。

「麦は亮平じゃない、私わかっていなかった…」

そう言いながら「ゴメン」と謝る朝子。そのまま麦に別れを告げ、亮平の元へと向かいます…

このとき朝子が麦に言った「これ以上行けない」という言葉は、単に約束した北海道には行けないと言っているだけではなく、たった今この現状において、麦とはその防潮堤には上がれない、二人で海は見れないと言っている気がします。

朝子は知っています。その防潮堤の向こうに海があることを。それはこの辺一帯を飲み込んだ恐ろしい海であることを。地形までも変えてしまった、嘘みたいに圧倒的な現実です。言わば防潮堤はその目隠しです。現実を覆い隠す境界線です。

思い返せば、亮平と付き合ったものあの震災からでした。あのなす術もなく圧倒的な現実を突きつけられた震災からです。あれから5年です。その間何度も繰り返し、朝子は亮平と共にこの地に訪れています。その理由は、震災という誰もが絶望に打ちひしがれた現実を目の当たりにし、朝子の気持ちの中で、あの出来事を対岸の火事として見過ごすのではなく、人として「間違いでないことをしたい」と感じたからです。

ここで矛盾が生じます。昨夜に朝子が言った「今までが全部長い夢だった」という言葉を彼女の真意とするならば、亮平との幸せはもちろん、震災後に出会った人たちや、朝子の「自分の心に嘘をつきたくない」という気持ちまでも、その全てが幻だったということにます。それは自分の感情が全て偽りだったと言っているようなものです。

もしこれまでの感情の全てが嘘だと言うのなら、朝子にとっての真実なんてものはどこにも存在しません。それだと愛そのものが消えてしまうのです。それこそが朝子にとって最大の欺瞞です。

それに気づいた朝子は、麦が海を見たときに放つ第一声を恐れたのではないでしょうか。いつも夢見がちで他者を見ていない麦の目線。わざわざオーロラを見に行って「夢みたいだった」と答えた人間です。そんな彼がこの海を見て一体どのような感想を口にするのかと想像するだけで、この土地を知る朝子にとっては居た堪れなく感じてしまうはずです。

「もうこれ以上行けない」
「麦は亮平じゃない、私わかっていなかった…」

その言葉の裏には、朝子にとっての震災の影響の深さ、麦が居なかった7年という月日の長さ、それらを共にした亮平という存在の大きさが垣間見れます。

麦と別れ、独り防潮堤に立ち、荒々しい海を見る朝子。その後ろ姿には、現実と向き合い、亮平と向き合う覚悟が感じられ、遠くを見つめる眼差しもまた、過去の自分と対峙しているようにも見受けられます。「SELF AND ATHERS」、自己が他者を見つめるように…

若さ故の恋は時に独りよがりで、相手の存在が大きくなればなるほど、そのあまりある余白の大きさに期待を膨らまし、勝手な妄想を繰り返しながら恋する気持ちに溺れていきます。それは現実を見ず、夢に夢を重ねているようなもの。恋に恋してるというやつです。

あれから長い歳月が経ち、自分では全然成長していないと言っていた朝子でしたが、少しは大人になったのでしょう。朝子は夢を追いかけていた自分に折り合いをつけ、うつつに足を伸ばし他人と向き合う時期が来たようです。

大病を患い寝たきりになっている友人の側に居ても、未だに自分のことしか考えられない朝子の欺瞞。朝子は正直に自分の自己欺瞞を認めることで、亮平と真剣に向き合う覚悟を固めていきます…

「行く川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず」

鴨長明「方丈記」の冒頭です。

川は確かにそこにあるが、それを構成する水は常に同じではないと言っています。つまり人生もそれと同じで、万物はみな水のように流転し、形を変えながら繋がっているのだと言うのです。

それは愛も同じです。確かに愛はそこにあります。確かに愛はそこにあるものの、それを構成する人の感情は常に流転し、愛の形ですら刻々と変えて行きます…

亮平は優しい、でも、もう甘えない
俺はきっと一生、お前のこと信じへんで
うん、分かってる…

亮平と朝子は同じ川を眺めながら話します。

水嵩が増してる、汚ったない川やで
でも、綺麗…

そうやってチグハグな会話ながらも、同じ川を見つめる二人。そしていつしか視線はこちらを見続け、ゆっくりと幕が閉じて行きます…


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この印象的な終わりに重なるようにして聞こえてくる、tofubeatsさんの「River」が最高ですよね。この作品の主題歌と知らずに前から聴いてたのですが、さすがこの作品のために書き下ろした曲とあって、エンディングで歌詞の持つ意味が存分に伝わってきました。

そして二人がこちらを見ながらのラストは素晴らし過ぎます。これは牛腸茂雄さんの「SELF AND OTHERS」の写真の構図を意図しての演出ではないでしょうか。「自己と他者」として、二人が視線を向けてこちらに問いかけているんですよね。

この二人の愛の是非を…

物語の最後は二人の妙な掛け合いによって、不思議な余韻を残しながら終わりを迎えますが、他の方のレビューによると、シェイクスピアの「マクベス」に「綺麗は汚い、汚いは綺麗」という有名なセリフがあるみたいですね。冒頭で三人の魔女が現れ、予言とも呪文ともとれる口ぶりで、マクベスにそのような言葉を投げかけたそうです。

それを知って僕もいろいろ調べてみましたが、またここでそれを書いてしまうと随分長くなってしまうので、コメント欄に入れておきます…

もう、とにかく最高な締めくくりです。濱口竜介監督、最高過ぎます。現役の日本人監督の中でダントツで一番好きな監督です。これから新作が楽しみです。

濱口監督作品の欠点はレビューが書きづらいこと。作品の中に幾つも登場人物たちの心情を紐解くヒントが散りばめられているので、それに気づくと、あれも書きたい、これも言いたいとなってしまいますから、考察をまとめるのが大変なんですよね。だからこんなにも長いレビューになってしまうんです。





参考・引用させていただいた記事ーーーー

「野鴨」あらすじ
http://blog.livedoor.jp/shoji_arisawa/archives/51500362.html

「野鴨」解説ブログ
https://tacksamycket.com/nogamo/?amp=1

牛腸茂雄さんの作品
https://www.pinterest.com/amosshih93/%E7%89%9B-%E8%85%B8-%E8%8C%82-%E9%9B%84/

大変参考になりました。
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