カリカリ亭ガリガリ

左京区ガールズブラボーのカリカリ亭ガリガリのレビュー・感想・評価

左京区ガールズブラボー(2017年製作の映画)
5.0
天才的。
MOOSICとしての成立性、及び作家の映画としての完成度、が、明確に高い。
しかもそれらを、あからさまにではなく、あざとさも皆無に、自然のままに、誠意のままに創造していること、これこそが最も素晴らしい。

まず、天才的なカット割しかない。15分間、ワンショットも間違いが無い。コンテが完璧。動線も上手い。真面目にショットの映画。撮影部が神。
これで計算ではなく、感性で撮っていたとしたら、映画に祝福されてやがるー!と驚嘆する。

画面には常に運動がみなぎっていてシーンが変わるごとにその運動の方向が異なる、というのは、極論として明言すれば、黒澤明並みに慎重に繋げられている。(レコードや自転車など、円を基調としたコンテも上手い)

登場人物たちがカミシモのどちらに向かうかとか、それぞれの視線の交錯の行方とか、信じられないくらいに「映画」として躍動している。
しかも甚だ凄いのは、篠田監督はそれを(恐らくは、の憶測に過ぎないが)ロジック的にではなく、あまりにも自然に、感性のままに表現しているのだろうと、こちら側に感じさせてしまう。
言わば、此処にあるのは”匿名的映画運動”の数々であって、アタマで考えるような作家が生涯を通して絶対に撮れないエモーションがある。

加えて、誠意がめっちゃある。
罪悪感に近いものがちゃんとあって、映画や音楽との向き合い方が尋常ではないレベルで高い。物語の転換部におけるプロットでは、「インディーズ音楽(≒映画)なんかが好きでごめんなさい」という自虐にも似たアンビバレントな念すら感じる。

ところが、ラストシークエンスにおいて「それでも……俺はインディーズ音楽が大好きなんだ!!!俺はその愛を、情熱を、やめない!!!」という強固な意志が爆裂する。

画的には、ただ少女が真っ直ぐに自転車を漕ぎ進めているだけだ。
だから泣けて仕方ない。
本作は、すべからく自転車の応用が巧みだった。それが青春映画におけるごく自然なモチーフであることを抜きにしても、「自転車に乗って進み続ける」という画に、思わず感涙せざるを得なかった。
自分も映画を撮る身であるから、ということも、少なからず関係していたのだろうか。

誤解を招く言い方かもしれないけれど、その愛を、情熱を絶やさないことこそが、俺の誰にも負けない「才能」だ!!という叫びさえ聞こえてきた。
音楽と自己。表現と自分。篠田監督は、ともかく総てを肯定し続けてくださった。
この優しさ。
MOOSICに必要だと感じていたのは、この視点だったのかもしれない。

それぞれが向いている方が前だし、進んでいる方向が道なんだ。
そして、いつだって音楽は流れ続けているし、それを好きであることを否定する必要は無い。うん、無いですよね。

と、一見すると見逃しがちだけれど、本作のシナリオの構成力は半端ではないと感じる。
とは言え前述した通り、個人的にはシナリオからではなく、篠田監督の意志は画から判断することも出来た。
15分間、至福だった。

感情の起伏を理解するためにもう少し尺が必要、という感想を散見した。如何にも、暴論だと思う。
これは15分間でなければならない。この速度、この移り変わり行く過程。丹念に描くことと状況説明は違うし、既にこの尺における絶妙過ぎる配分で各シーンは配置されている。
少なくとも、自分は主演二人が左京区で生きている、と感じた。二人は左京区に”存在”している。
今日も生きているはずだから。
そう感じられたことが本当に嬉しい。

重複しますが、MOOSICの企画として成立しているし、明らかに映画的な運動神経がある作家の映画でしかありません。
伝えたい思考と手法がかなり理想的な形で一致していて、陳腐ながら、本当に上手いとしか言いようがないです。
表面上だけ捉えて、ツマランナーとか批評家が言い出したら、彼らは職を畳むべき。

純粋に好き、とも思えるし、切実に凄い、とも感動しました。
篠田さんの愛に、少しでも応えられるように精進致します。


余計な追伸
とみぃはなこさん、女神。