高橋

プーと大人になった僕の高橋のレビュー・感想・評価

プーと大人になった僕(2018年製作の映画)
2.0
 映画の物語が図式的であることは、いささかも画面の豊かさを阻害するものではない。そうした図式を映画に初めて持ち込んだグリフィスであっても、ジョン・フォードでも、ハワード・ホークスでも、あるいは小津安二郎であっても、かれらの映画は図式的であることによって、豊かな画面づくりに専念できているのである。
 ところがこの「プーと大人になった僕」はどうであろうか。大人とこどもとか、仕事と遊びとか、図式的ではあるが、画面はまったくただの映像である。映画はいってしまえば映像かもしれないが、単なる映像を映画とはいわない。物語は主に喋っている人物やぬいぐるみのクローズアップの切り返しショットによって進められ、いかにもただ物語を官僚的に映像化しているだけである。たとえば、プーは汽車に乗っているとき、その車窓から外を眺めながら見えたものを口にだすゲームをはじめるが、カメラはプーを映すばかりで、車窓からの風景をパンフォーカスによって示すというようなことはない。ユアン・マクレガーが百エーカーの森に帰ってきて、「百エーカーの森はこんな感じだったかな」というようなことをいうが、そのときさえカメラはほとんどユアンの表情を捉えることしか頭にない。
 ショットはまったく持続しておらず、カメラはあっちから撮ってみたり、あるいはこっちから撮ってみたりと、不安定である。それは冒頭のティーパーティーのシーンからわかるのだが、そこではプーたちから少し距離をおいたどこかここしかないというような場所にカメラを置いて(それが難しいことなのだが)、最後にカメラをすーっと引いていく、あるいはもっとロングのショットを繋いでやる。そうすれば、クリストファー・ロビンと、かれが大人になることで失われようとしているものとの距離が意識されるではないか。
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