ねつき

生きてるだけで、愛。のねつきのレビュー・感想・評価

生きてるだけで、愛。(2018年製作の映画)
4.0
「あんたはわたしと別れることができるけれど、わたしは、こんなめんどくさくて、生きてるだけで疲れるようなわたしと、生きてる限り別れることはできないんだよ」

観たのはだいぶまえ。
これは濃レビュー案件だ〜と思って丁寧にこさえてたレビューが例の如く消えちまってから書く気を失ってたけど、なんとなく思い出したことがあるので少しだけ。

私は自分の中にけっこう大事なものとして残っている言葉の中に、「脳内ポイズンベリー」という映画の「誰が好きかじゃなく、誰と一緒にいる自分が好きかだ」っていう台詞がある。これも今回の話に似てるなあって思った。
結婚相手とか恋人とか家族以上に、常に一緒にいなきゃいけないのは「自分」という人間である。職場の関係が近いところに、マウントとってくる嫌なやつとかがいたらものすごく辟易する。もう大人なので、嫌いなやつなんかもちろん恋人にしないことができるし、友達にもする必要がない。嫌いだと思った人間とは、上手くやれば関わらなくてよくなるのだ、世の中。
嫌いな人と距離が近ければ近いほど疲れる。じゃあ嫌いな人が、ゼロ距離で生きていかなきゃいけない自分だったら?と思うとものすごく疲れる。もっのすごく。嫌いな先輩と隣のデスクになることより、何倍も何倍も疲れる。趣里ちゃんは、そういう辛さともずっと戦っているのだと思った。

自分のこと嫌いと思うとものすごく疲れるからさ、躁鬱じゃなくて趣里ちゃんよりは多少上手に生きられる私たちは、自分のこと満たしてくれる、自分のことを好きな人と付き合うよね。「自分のことが好きな人が好き」って、全然間違った理論じゃないと思うのだ。誰が好きかより、誰と一緒にいる自分が好きか。歳をとるごとに、私の中でこの言葉の意味がどんどん深く突き刺さっていく。(ちなみに脳内ポイズンベリーという映画はクソほど面白くない)
だけどね、ただ自分のことを好きなだけでもダメ。例えば、自分のことすごく好きでいてくれてなんでも受容してくれすぎて、自分が開放的になりすぎて、言いたくない誰かの悪口とかをついつい言いすぎちゃって、あとで自己嫌悪する。こういう相手は、(少なくとも26現在の段階では)選べないと思っている。付き合うには、ある程度自分を着飾る緊張感が必要だ。見せたい自分を見せられる余裕、というか。ある意味緊張感だ。今の彼氏には、それがある。だから好き。

あと、ウォシュレットのシーンは、ああわかる、と思った。
趣里ちゃんの圧倒的自信のなさが露呈した瞬間だった。だって何にも成し遂げてないんだもん。なんっにも。そりゃ、自信ないよね。自分の中の常識は、世の中の間違いなのかも?っていう感覚、みんな自分の苦手分野で考えたら、ものすごくわかるよね。例えば、歴史が苦手で、歴史の話になると意見言うのがはばかられるけど、勇気出して言った意見でみんなが「……え?」みたいな空気になったら、死ぬほど恥ずかしくて発言したことを後悔して穴があったら入りたい状態になるよね。趣里ちゃんにとってはその“苦手分野”が“生活全般”とか“生きること”なんだもの。そりゃ、トイレぶっ壊して逃げ出したくなるよ、だって自己表現の仕方がわかんないんだから。他人とわかり合ったことなんてないんだから。
こういうの観てると、つくづく子供とか学生時代の過ごし方が重要だなぁって思うよね。成功体験と失敗体験のバランス。子供にはどちらも経験させるべきだけど、意図してできるものではないから、とりあえず何かと挑戦させるしかない。

ま〜〜とにかく、私も自分自身躁鬱を疑うことがあるくらい(たぶん国民全員あるレベル)落ちる時は落ち、上がる時は絶好調になるので、趣里ちゃんの気持ち、月並みだけどわかると言いたくなってしまうのだ。
でも辛いときも、たった1人の理解者がいてくれるだけで道が開けるから、「世界中が君を憎んでも僕だけは君を守る」とかいうJ-POPの「は?」みたいな歌詞に出てくる男のような存在(ただしバカはNG)が全国民に保障されればOK。


とりあえず私の今の使命は躁鬱病の人に想いを馳せることではなく、このコロナ騒ぎなのに外出するアホ彼氏の脳内に危機感を植え付けることなので、本職を頑張りたいと思います。
ねつき

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