るる

ブラック・クランズマンのるるのネタバレレビュー・内容・結末

ブラック・クランズマン(2018年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

投稿までに時間がかかりすぎた、鑑賞後、自分なりの感想をまとめる前に普段は見ないのに町山智浩さんの解説をYouTubeで流し見してしまってブラックスプロイテーションという知識・概念を入れてしまったので、ちょっとまた感想が変化してしまった、うーん。

『ブラックパンサー』や『スパイダーバース 』に熱狂して今作の肩を持って『グリーンブック 』にノレないでいた自分の心性を言い当てられたような、
とはいえ、もうじき公開の『名探偵ピカチュウ』の主演がアジア系ではなくアフリカ系であることには引っかかりを感じているので、無批判にブラック・パワー万歳ってわけじゃないんだよな、一概にマイノリティの逆襲万歳とも思っていない、って、いやいや誰に言い訳してるんだか、とか。
自分が立ってる場所を見直すような、狭間にいるような状態で投稿する羽目になってしまって、うーん。散り散りになりそう。自分が批評や感想にどういう影響を受けているか整理しておきたい。

"黒人の映画"について、ある程度、作品数を見たせいか、下世話な好奇心と興味が知識欲に変換される段階に至ったということなのか、気になって気になって。雑多な情報で窒息しそうだし、整理のために『ブラックムービーガイド』あたりを読んでスッキリしたい。ってこういう書き方をするならアフィリエイトブログとかやったほうが小遣い稼ぎになったりするんだろうか。という前置きが冗長で散漫だけどもういいか。パンフも買って読もう。。

私は学生のころエンタメ映画を見たときに、これはこういう政治的な意味でしょ? こういうメタファでしょ?とか言いがちで、深読みした結果そう読み解いたとかじゃなく、鑑賞しながらそういうふうにしか見えないからそういう感想しか言えないタイプで、

(ドラマ映画には言語化できないような人間の心や状況に迫り詳らかにしようとする文学性があるけど、エンタメ映画の多くは人物を動かしながら撮りたい絵とテーマを見せていく、手法や技巧が先立つもんでしょ? 人物の性格や心情の動きはキャラクター特性であって関係性のドラマはストーリー推進のエンジンでしょ? 国語の読解問題やってんじゃねえんだから人物の心情がどうのにとらわれすぎてどうすんのさ、台詞として書かれてない部分に乗っけられた制作意図や配役の意味を観なくてどうすんのさという、とてつもない暴論、映画のまえに演劇、小説文学のまえに戯曲文学をかじってしまったせいもあるかと思う、そのシナリオ・物語が、現代に上映される作品としてどのように演出されて作品化されて商品化されているかがどうしても気になる、藝術礼賛よりもそういう下世話さが私の根底にはある、何にも考えずに楽しめる作品なんてあるかよ、気にしているわけじゃないから気にしないなんてできない、気になってしまうものはどうしようもない、という、もちろんエンタメ作品に文学はやれないという意味ではなく、映画という作品媒体からどういう情報をメインに受け取っていたか、どういう楽しみ方をしていたか、という話)

だからまあ、誰かと映画を見に行って感想を話そうにも話し方がわからなくて困ることが多かったんだけども、

町山智浩さんの映画評論に触れたときに、ああ、こういう見方をしてもいいんだ、ある種の知識やある種の共感を持って見るとそういうふうに見えてくるのはしょうがないことなんだ、技巧や作り手や作品背景に思い巡らせたり共感したりするのは悪いことじゃないんだ、と知れて、許された気持ちになって、ホッとしたんだよな。
(のちに蓮實重彦という知の巨人による映画の見方を知ってまた目からウロコを経験したのであった)

とはいえ以来、博覧強記に憧れる気持ちがないではないけれども、どちらかというと、映画を読み解くために知識を入れて見るのではなく、そのときの自分の知識量(感性)をはかるために映画を見ているフシがある、
批評家ぶって共感を抑えて冷静に客観的に作品を見ようとするなんて観客の在り方としてナンセンスだし、批評を眺めるのは内容理解のためというよりも他人の感想や感性や意見を知るためと決めている、批評や考察を読んだおかげで理解が深まったなんて言えてしまう気が知れない、あくまで学びの補助線でしかない、なんなら、あくまで映画はカメラのレンズを通したフィクションでしかない、
作品を批評したり考察したり解説することを楽しみたいのではなく、ただ自分なりの感想をまとめたいだけなのだ、現実を生きるためにドラッグのように作品を摂取しながら粉々になりそうな自分の核を朧げながら捉えて書き留めて記録しておきたいだけなのだという、原点を忘れずにいたい、
定型文で感想文を書くと取りこぼされてしまうものがある気がするので、冗長になってもいいから正直に自分なりの語彙を重ねながら自分なりの心情に的確に迫れるようにしたい、そのための文章化、と思ってたんだけど、

もうずっと文章は雑だし、冗長な文章をあえて書いてるフシまであって、中途半端な日記じみてきていて、それはもうブログでやれよとも思うし、どうしたもんかなと思ってる。フィルマークス、なにしろ検索しやすいし、関連映画と記憶を紐付けるのに便利だし、鑑賞記録としては使いやすいんだけどな。ある分野の知識情報をひとまとめに置いておける外部記憶装置がある、ということはすこぶる安心なことで、誰かに読まれるかもしれない緊張感もちょうどよ…かったんだけど、最近どうだろう。使いわけを検討したいけど、どうしたもんかな。

(ところで、政治の話…大人の会話ができるような友達を学生時代からひとりも持てずにここまできてしまったこと、大人としてすごく情けないことな気がしてきた、すげえつれえ)
(それでも投票には行っている、投票率とか見ると毎度すげえつらくなる、幼馴染のシングルマザーからなんで投票に行くの?と心底怪訝そうに言われて死にたくなったりしてる、君のようなひとや君の子供のために、なんてキレイゴトは言わない、伝わる気がしない、私には選挙権がないもんと笑っていたかつての優秀な同級生のことをときどき思い出している、損なわれることなく健やかに生きていてほしいと願っている、彼女に恥じないためにも権利を放棄せずに自分なりに行使しなければと毎度思っている、でもこんな話は気安くできない、伝わる気がしないし、差別とヘイトがそこかしこに存在することを私はもう知っている、怖い、自分の友達がネトウヨだったと知って話の通じなさに絶句してしまうような、そんな経験をもうしたくない、これ以上失望したくない、投票に行く理由、自分が殺されたくないから、ってのがもはや一番近い感覚だけど上手く説明できない、知人のおっさんから、政治に興味がある若者、独身の女、立候補したら?知り合いの政治家を紹介してやるぞ、と冗談交じりに言われたことがある、そんな話を、したかったわけじゃない、もうただただ、珍しいモノ扱いされ続けながらここまできてることがめちゃくちゃにつらい、もっと軽やかにスマートにカジュアルに世間話をしながら生きたい)
(いや身軽に生きてる、生きてるけど)
(自分が心から解放感を味わえるようなコミニュティに出会いたいし属したいと思う、学生時代からコミニュティに属しては罪悪感と焦燥感と苛立ちばかり感じている気がする、自分がこのコミュニティの構成員であることに耐えられないと感じる瞬間がどこかでくる、構成員であるからには責任を持ちたいと思うし悪には加担したくないと思う、普遍的な正義はなくとも普遍的な悪はあるだろ、闘いかたをもうちょっと身につけたいと思う、正しいことより親切を、でももう、モチベーションが保てない、頑張る意味を見出せない、馬鹿馬鹿しくなってくる)
(結局なるべくコミニュティに属さないで済むような生き方を選んでみたけど、自分の数少ない属性をなかなか誇りに思えない、あまりにも寂しい、心の健康に悪すぎる)
(かといって自分にとって快適で居心地のいいコミニュティに属しているということはそのコミニュティの中の特権階級にいるということにも繋がりかねないので気をつけたいよねとか)(定期的に希死念慮がやべえ死にたい)(他人に許されながら生きているありがたみを噛みしめているけれども定期的にはちゃめちゃにしんどい)(ないものねだり、屈折した傲慢だなとも思う)
(結局浅い繋がりをたくさん持って、責任を持つ必要なく、おいしいところだけつまみ食いしながら渡り歩くことができる状態が一番の特権的立場なのだろうと思うし人間を相手にしないで済む趣味にはそういう効果があるよなとか)(しかし出口がない)(上野千鶴子みてえな髪色にしたいな、いまちょうど話題だしクールじゃね? 気分アガりそう)(派手だね、上野千鶴子の真似、誰それ? 東大の喧嘩が強いひと、って言えたら気分アガりそう、やろうかな)


という備忘録。ブラッククランズマン、ビリーブ、バイス、マックイーンと見てきていろいろあって選挙もあって情緒がおかしい。多分あとで全部消す。


以下、鑑賞直後の感想に付け足してるうちにぐちゃぐちゃになったメモ。

上映館数少なッ! アカデミー賞作品賞の効果をいまさら知る、『グリーンブック』なあ…でも、映画の日だったからかもしれないけど、各回大入りの客席にびっくり。この手の映画でこんなに席が埋まってるなんて新鮮、脚色賞効果か、『グリーンブック 』と合わせて話題になった効果か、単に評判が良いのか、上映館数を絞ってるから人が集まってるだけか、なんにせよ嬉しい、というか、心強い、というか、良かったねと。
脚色賞には納得した。パロディがこれでもかと。(『ROMA/ローマ』も見ておきたいなあ、アカデミー賞なあ)

なるべくひとの少ない回で見たかったのが本音なんだけど。ど真ん中の席を選んでしまったこともあり、両隣の男性客の息遣い、ポップコーンの噎せ返るような匂いなど、映画の内容も相まって、なかなか閉塞感があってキツかった、

でもなんだろう、隣から時折聞こえる笑い声だとか、こういうので笑うオレ、という気取りが垣間見えたりして、ソレを受けて自分はちょっと控えようとブレーキがかかったりして、面白い空間ではあった、かな…?
私もどこかしらで笑ったけど、微妙にお隣とは笑いどころにズレがあって、違いはなんだったんだろうとか。笑ったポイントって記憶に残りにくいんだよな、どうだっけな…

多少、作為的でもいい、教科書的でもいい、強引でもいいから、主張と題材と手法が合致した作品が好きなので、終始好感を持って見ることができた。主張が明確、手法が的確、選曲センスがいい、好き。
観客に悪夢のようなfactを突きつけて、これは現実の話だ、現在の話だ、タダでは帰さないぞと揺さぶるような結末も好き。後味悪くする必要のある映画で、鑑賞体験の快不快よりも、鑑賞体験後の効果を優先する、それもまた映画であると示す、作り手の気概が好きだ。

主張の内容が自分の心に沿うから、肯定的に見られる、というだけかもしれないけども。

自分がもしKKKだったら…趣向を凝らして人を踏みつけにするなとキレていたか? いやでも、その場合、先に人を踏んだ、踏んでたのは自分なんだから同じやり方で踏まれたとしても文句は言えない、仕方ないじゃんね、そのへんを認めるだけの羞恥心は持っているつもり…むしろ、主張はさておき技巧は凄いなどと言いながら受け入れたかもなあ、そういう、小賢しい取り繕いをしたかもしれない、どうかなあ。
こうやってもし自分がアッチ側だったら、と辿ってみると、ひとが冷笑するときってやっぱりどこか痛いところを突かれたとき、問題の本質から距離を保ちたいときなのかもなと気付くね。こういうシミュレーションって大事だと思ってる…レイシストがなぜレイシストになったか、他人事じゃないと思っている。脱線。

これ、舞台化しても面白そうだよな。潜入捜査というロールプレイングも相まって、非常に演劇的だと思う。

一方で、過去のプロパガンダ映画を乗り越え、塗り替えられるのは新しいプロパガンダ映画だけ、ということも思った。ドラマじゃダメだし配信じゃダメなんだ、他の媒体じゃ意味がないんだ、かつてのプロパガンダ映画と同じ媒体、土俵で挑んで、作品をぶつけて、更新して、過去の過ちを浮き彫りにしたうえで、潰さなくちゃ、そう、潰さなくちゃ、乗り越えなくちゃ、意味がないんだ、ということを思った。壮絶。

映画の力を、物語の力を誰よりも信じている、だからこそ、過去を思うと、恐ろしくて苦しくて辛いんだ、という感覚にシンクロしてしまって、ヒリヒリした。映画が好きで映画監督になったのに、映画文化を素直に愛しきれない辛さを思う。映画を政治利用するな、という話をするために、政治的にならなければならないジレンマを思ったりした。

『國民の創生』に正面から挑んだ『バース・オブ・ネイション』を先に見ておいて良かったと思う、俳優自らがメガホンを取った映画、あんまり良い出来とは思えなくて、好きになれなかったんだけれども、あの作品の志を継いだうえで、

ハリウッドとの喧嘩はこうやるんだよッ! 監督業ナメんな、これが映画だッ!と示してみせたような企画だと思ったんだよね。痛快だったよ。比較しながら見てしまったことで、ああ流石に上手いな、スパイク・リー、さすがだ、洗練されている、ハイクオリティだ、と感じるポイントだらけで、感心。嘘のつき方も上手い。

翻って、どういう表現なら気持ちよく見られるのか、どういう表現だと眉をひそめてしまうのか、自分の中の基準がぼんやりと浮き彫りになってしまったかも、
怒ってるのはわかったから冷静に理論的に、ときにユーモアを交えて俺たちを不快にさせない範囲で主張しろ、というスタンス、トーンポリシング的な振る舞い言動に陥らないように気をつけたいと思っているんだけど、
作品にして商品にする以上はこうあるべきだろう、という固定観念、信念みたいなものが私にはあるのかも。
どんな主張であれパブリックに向けて発信されたものである以上、加点ポイントを探そうとして伝え方の技巧に関心もっていかれたりしがちで、
主張の内容はともかく技巧は凄い、見習うべき、などと冷静に受け止めることはできる一方で、
技巧、パフォーマンスの下手さが目につくと、主張には共感できるのにもっと巧くできるはずだろと苛立ったりする、これは、なんなんだろうな。

喧嘩するなら上手くやってほしいと思ってしまう。下世話で小賢しい、気をつけたい。

一方で、プリミティブな怒りの発露にはむしろ寛容なほうだとは思う、飾れないものを無理して飾らなくていいよと思う、怒るのは仕方ないと思うので…
でも、怒りをそのまま表現するって実はめちゃくちゃ難しいことで、プリミティブな怒り(に見える表現)の商品化なんて完全にアートの領域だよなとも思う。
だから、metoo運動とか抗議デモとか、ああいう怒りそのものの連なり、実体験エピソードの連なり、作品化や商品化から離れたムーブメント、factsにはなによりもパワーがあると思っていて、
ああいうのを冷笑して踏みつけにできてしまう人間に遭遇するたび、感情ぐちゃぐちゃになってしまう、ひとの怒りを笑うなと思ってしまう、共感できなくてもせめて弁えていたいと思っている…

そういう意味で、今作、ガツンとハマったんだよね、本当に凄かった。プリミティブな怒りがロジカルに確信犯的に組み立てられていると感じて、ゾッとした。荒れ狂う怒りの向こうに行ききらないとできない手つき。凄すぎる。理性的な狂気を感じる。

脚本が行き届いているし、キャストがいい、ユーモアセンスは映画としての見やすさに繋がっているが、問題の焦点をマイルドにはしていない、全てを手段に変えている、痛烈な皮肉、バランス感覚、怒り以上に作り手として必要な批評精神がある、軽やかさと鋭さが持ち味として機能しすぎるほど機能していて、圧巻だった。

実際の映像のモンタージュなど、賞からは敬遠される手法なのかな、しかし、『私はあなたのニグロではない』といい、改めて作られる虚構の映画よりも、現実社会がつくってきたモノのほうが、factsのほうが、よっぽどパワーを持って人間を圧迫して殺してきたことを突きつける、これ以上ない結末だったと思う。

ただ、最後にトランプ大統領の映像が使用されていると、ネタバレを知ったうえで見てしまったので、鑑賞体験としてはちょっともったいないことをしたかも、感想は変わらなかったと思うんだけど…

中盤か、ああこれはトランプ大統領のことだ、と凍りつくような思いで見てしまったシーンがいくつかあって、
でも周囲では小さな笑いが起きていて、その温度差の正体がわからなくて戸惑ってしまった。
結末を知らなくても、これはトランプのことだな、と気付いてた…とは思うんだけど。

なんで笑いが起きていたのかまでは、あの場では考え巡らせるに至らず。結末を知らなかったら、私もトランプを皮肉ってるサスガ、と笑ってたんだろうか。いやでも、やっぱり、笑えなかったと思う。

KKKが政治家になるかも、そんなわけないと笑う、しかし、「黒人だろ、もっと危機感をもてよ」と。スパイク・リーから同胞の黒人たちへの警鐘なのだろうとわかる、2016年にトランプを支持して投票した黒人たちがいたこと、どう受け止めるべきなのか、

わたしはもう…同性愛差別や女性差別や家族主義に憤っている人間が、現政権を支持したり追認している意味がわかんない、どう対話していいのか、どこから話し始めればいいのか、どういう言葉なら届くのか、暖簾を前にして、もうずいぶん前から押す腕も発する言葉も見失っているので、やっぱり、笑えなかったと思う、渦中にいる、と思ってしまう…
そんなことより憲法改正、わかっていない女扱いされたときに、一体どう言い返せばいいのか誰か教えてくれ。投票になんか行く意味がわからないと言われたとき、なにから説明すればいいのか誰か教えてくれ。負けるとわかってるのになぜ投票に行くのか意味がわからないと愚か者扱いされたときになんと言えばいいのか教えてくれ。わからない。早々に話を切り上げるのはいつも向こうだ。大義のためにと人を踏んで嘲笑う態度をどう思っているのか、どうして正当化できるのか、誰か懇切丁寧に説明してくれ。私はしたぞ。こんなことで付き合いを切ってはいけないだろうと繋がりを保っているけど、心挫けそう。勝ち馬に乗りたいだけなら正直にそう言え。

後で消す…。

そうそう、描写をマイルドにしているとはいえ、KKKには女性差別がある、ブラックパンサー党は女性にも優しい、としているあたり、ちょっと鼻白んでしまったのはたしか、本当かよ?とハスに構えてしまった部分はある、
演説で「シスター&ブラザー」と呼びかける、あ、女性が先なんだ、と思ったけど「レディース&ジェントルマン」の言い換えなのかな。なんにせよ、きちんとしてるのに対して、

白人至上主義者たち、言葉の端々に女性軽視が見えるようにつくってあって、その細やかさに苦笑してしまった。この部分には苦笑できる余地があったんだよな。男たちを讃えるように、と教会に女たちを呼び込んだあたり、やっぱりどうしても醜悪で、ソレを意図的にやってることに、苦笑。

でも、あの妻が、夫の役に立とうとして頑張ってしまう姿を描くあたり、やっぱり大事だと思ったんだよな。男たちに利用されていることに気付いていないという指摘。大事。『侍女の物語』のセリーナ・ジョイや『ファンタビ2』のクイニーの描写にも通ずると思う。自己実現のために、狭いコミニュティ内の権力者に気に入られるために、張り切ってしまう女。

差別主義者たちを美男美女のキャストで表現せず、美化せずに描くあたり、痛烈だなとも思った。賢そうな美男美女たちが、差別主義者、という描き方も大事だと思うけど、田舎の差別主義者ってあんな感じだよな、とも思って。素朴で純粋で、人が良さそうで、ナチュラルに、怖い。
あえて黒人をカッコよく描いて白人をカッコ悪く描いている、という感じはあまりしなかったんだよな、都会的でクールな若者vs田舎の保守的な中高年という構図で目立たなくさせていたのかもしれないけど…ああいうリアルは、ある、あるよ、あると思う…うまい塩梅だったと思う。

ユダヤ人の相棒、アダム・ドライバーがめちゃくちゃセクシーでかっこよかったのも良かった。ダビデの星、と聞いて『君の名前で僕を呼んで』をすぐに連想できて、つまずかなかったのも良かったんだろうけど。スターウォーズから出演作をいくつか見てきたけど、一番魅力的に見えた。彼、独特な哀愁が魅力だと思ってるけど、『ローガン・ラッキー』から深みと繊細さが増した感じの演技で、気のおけない仲間といるときの軽薄さも乗っかってて良かった。

優しさや連帯よりも、小さな苦悩と職務上の義務と親切を見せたのが描写として誠実に感じた。
普段は特別意識していない自分の人種や民族性や宗教、自身の基盤となる部分、ルーツを、KKKに潜入することで嫌でも意識せざるを得ないストレスは、黒人のロンが常に感じているストレスと同種だったと思う。ロンを助けるために車を走らせる終盤、白人のヒーローとしては描いていないけど、信頼できて良かった。

『グリーンブック』のマハーシャラ・アリが助演扱いじゃなくダブル主演の扱いだったら、アダム・ドライバーが助演賞とっても良かったんじゃないかと思う。未見のファンに薦めたい感じ。見たほうがいいよ、かっこいいよ。

ロン役の彼もよかった。アフロヘア、就職面接、冒頭からずっと含意を読み取れたのも良かったし、射撃訓練後の風景を見渡すあたり、音楽のパワーも相まって壮絶だった、最後の電話、種明かし、仲間たちと笑いあう様子も良かったし。「黒人英語」って歌うように話すんだな、魅力的、と状況のしんどさに対してポジティブに見られたのはあのキャラクターのおかげな気もする。

ただ、最近の俺たち私たちが大好きな、頭が良くて繊細さも併せ持つ、女とも対等な会話をしようとしてくれる陽気なブラザー、という感じもして、あと一歩、俳優独特の強烈な個性を見たかった気もする、アダム・ドライバーが個性的な俳優だからこそ、もうあと一歩、新しいバディ感、相乗効果に期待したかった部分はあるかも。あの、太ってもいなければ筋肉質というわけでもなさそうな、人好きするけどお人好しというわけでもなさそうな見た目が、代えがたい魅力といえばそうだけど。

ローラ・ハリアー、どこかで見た、オシャレ、と思ってたら、『スパイダーマン ホムカミ』に出てたと知って納得、あの映画での扱い、いろんな意味で気の毒だったよな、肌の色がストーリー上のドッキリ展開に使われてしまうあたりも、実は正ヒロインじゃなかったという扱いも、あの何も知らされないまま終わっていく結末も、キャラクターや俳優に対して誠実とは言いがたかった、と思ってたので、こういう作品に出てくれて、起用されて良かったなと思う。キャリアを追いたい気持ちになる。

活動家の女性を描く作品、増えてきてるけど、やっぱり刺激的で、きちんとロンと討論させて、溝を浮き彫りにしたあたり新鮮で良かった。
警察署内でカエル呼ばわりされているロンの前で警察官を豚呼ばわりするあたり、どっちつかずで板挟みで孤独な黒人であるロン(『DOPE!』『グリーンブック 』『スパイダーバース 』でも描かれている黒人像)を際立たせて良かったし、
差別に抵抗するひとの言葉が仲間を撃っていることがある、という皮肉や自戒も感じさせて良かった。
そういうことは往往にしてある、なんなら仲間を刺激してアジテートしてる部分もある、ちなみに俺は自覚的に作ってるぞ、という監督の在り方まで織り込み済みなあたり、サスガ、と思った。

志は近いところにあるし、貴女みたいに背景と主張と行動を一致させて単純明快な存在になれたらいいけど、身内との関わりや職業的にそういうわけにもいかん、過激な活動にはどうしても心理的にブレーキがかかる…わかる気がしたので、ロンの気持ちには共感できた、個人的には、その先の振る舞い、ロンは彼女にどうあるべきか、どう接していくべきかについてのヒントが欲しかった、モデルを見せて欲しかったので、ウヤムヤにされて幕切れへなだれ込んで行ったのは残念だったかも…な。

(『未来を花束にして』『BPM』あたりを観ていたのも良かったかも。ロンと同じく、活動には参加しないが、せめて邪魔をしない、賛同できる部分にだけ賛意を示す、自分の心配や懸念事項は心のうちに留めて、相手への気遣いだけする、というのが現状、私が見つけた最適解かな…助言のつもりの苦言、釈迦に説法は避ける、行動できないなら応援だけする、応援できないなら黙る、行動できない言い訳を相手にしない、不安の共有や慰めを相手に求めない、自分にできることを探して相手との方法の違いについて考える、活動が達成されて回り回って恩恵に預かるときにはきちんと感謝する、かな。フリーライドに罪悪感が湧きそうとなると手軽で気軽な署名や募金に落ち着くよな…でもその相手がガッツリ身内だったら、距離も取りづらくてしんどそうだなとも思う)

ブラックパンサー党の活動が現在にもたらした成果を知っているから安心して見られるのであって、あのカップルは今後も衝突が絶えなくて大変なんじゃないか、という気はした。

そうそう、男社会の陰湿さ、男の友情の面倒くささが描かれていたあたりも新鮮で良かったかもしれない。服を脱げ、割礼してないなら見せろ、と言ってくる男に、ホモかよ、と言って切り抜けるあたり、あるな、あるよな、と思ったな…仲間であることを証明するために裸になれという男たちを実際に見たことがある、ので、じっとりと嫌な気分に。ダビデの星がバレるのかとヒヤヒヤしたけど、そっちの方向にはいかなかったので、そのシーンで訴えたいものが明確で良かった。

なんというか、憎むべき相手が使った憎むべき手法を自分も使ってみる、そうすることでしか乗り越えられないものがある、かつての自分が攻撃された、同じ手法で別の誰かを攻撃してみる、そうでもしなければ、至れない境地がある、そういうの、なんとなくわかる気がするんだよな、加害者側の気持ちや行動を追体験してみてようやく折り合いがつく心というのはあると思う、加害者と同じことをしちゃいけないと踏みとどまるひとのほうが多いと信じてるけど。その行為の恐ろしさや行為への躊躇を体感してようやく、自分は彼らとは違うと納得できるとか。湧き上がる衝動を我慢せず解放してようやく制御できるようになるとか。苦手なことこそ一度やってみて何故苦手なのか整理してみようとか。あのとき加害者は一体どういう気持ちでいたのか…と白うさぎをあえて追ってみる狂気、わかる気がするんだよね。

スパイク・リーがどうだか知らんけど。

なんにせよ、今作で創作者としての彼はプロパガンダ映画やパロディの手法を呑み込み自在に操ることができるようになったということで。次作でどう昇華するのか、注目したいなと思う。
プロパガンダ映画をつくる人間たちを茶化した『ワグ・ザ・ドッグ』が好きなんだけど、黒人映画をつくる映画製作関係者たちについて描く、自己言及しつつ現状から脱して更なる高みを目指すような境地、方向性の作品も見てみたいなと思った。そういうこともできるようになったんだと思う。スパイク・リーひとりではこんな映画はつくれなかったはず。ジョーダン・ピールといい、今後いろんな可能性があるよな。すげえよ。

演説を聞く彼らの顔、あのシーン、しばらく忘れられないと思う。


つれづれ。
るる

るる