ホッパー

愛がなんだのホッパーのネタバレレビュー・内容・結末

愛がなんだ(2018年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

愛がなんだ映画批評

『愛がなんだ』の映画批評をしていきたい。読んで頂けるかたに少しでも有益であればと幸いです。

・ずっとこういうことをしてきた。
今泉力哉監督の映画の恋愛はちょっと変だ。単純な1対1ではなくて登場人物たちの恋愛をちょっとずつ交差させて入り組ませている 『パンとバスと2度目のハツコイ』ではヒロインとヒ ロインの初恋の男性、ヒロインのことが初恋の相手という女性の奇妙な三角関係が描かれてい た。テーマは「なんでそんなに人を好きでいられるの?」でその答えは片思いだからだった。

『鬼灯さん家のアネキ』でもそうだ。母の再婚相手の娘、つまり血の繋がっていないお姉さんを好きになる話。そこにも主人公の同級生を三角関係に混ぜてきた。実は主人公の同級生もお姉さんが好き。いろんな人の思惑が絡みあうのがほんとの恋の世界と言わんばかりに。

サッドティー』も「ちゃんと人を好きでいるってどういうこと?」ことがテーマだった。 二股している脚本家、二股をかけられている女性二人。彼女が他の人を知っている好きなこと を知っている男の子、彼氏はいるけど本当は先輩が好きな女の子 10年一人のアイドルを好きでいる競歩ランナー、10年前アイドルをやめたネイルショップの店員今泉力哉監督はこれでもかというぐらいいろんなキャラクターを作って少しずつ関係させて映画にしてきた。ずっと1 対1ではない恋愛映画を撮ってきた。そして『愛がなんだ』である。

・『愛がなんだ』この映画の長所と短所
この映画の長所は観たいと思わせるキャッチーなタイトルとマモちゃんがテルコを幸せそうに背負うキービジュアルと「全部が好き。でもなんでだろう、私は彼の恋人じゃない」というキャッチコピー。ちょっとずれて過剰なキャラクター。複数の結末。ラストシーンの余韻である。短所は登場キャラクターが普通でないがゆえに説明が必要になるところだ。例えばマモちゃんと象をみて泣くシーン。普通の人だったら自分たちの未来を夢想して幸せで泣いているなんて想像もつかない。特異な主人公であるがゆえに説明が必要になる。

・原作からの変更点
『愛がなんだ』には原作がある 角田光代著 角川文庫 小説版から変更点は下記
1 原作では中国の王様のエピソードはテルコの話
2 ナカハラは原作では別荘に旅行に行っていない
3 マモちゃんがお酒のみすぎて不能になるシーン。原作では元気にならない
4 中原青、坂本葉子、田中マモル、山田テルコといったテロップ演出は原作にはない。

映画化するにあたって原作からの変更点つまり脚色は作品の性格を表す。最初の二つの変更点で分かる通りナカハラはテルコの合わせ鏡のような重要なキャラクターになっている。片思いをする二人が話す様はそのまま葛藤となる。

三つ目のマモちゃんが不能になるシーン原作では起たない男性器はそのままマモちゃんの気持ちのような気がしたと心理描写されている。映画版ではマモちゃんの貧相でかっこよくない自分になんで山田さんは優しいの?のやり取りの後、蹴ったなーのやりとりの後起つがしない 。起つ描写はテルコの気持ちが少し通ったのを表していた。

・4人の変化が連鎖する
特筆すべきは別荘での出来事から始まる。キャラクターの心理描写のドミノ倒しだ。すみれさんのナカハラいじりから始まった。すみれ「葉子って最低じゃん」→ナカハラ「葉子さんは 最低なんかじゃないですよ」→すみれ「どうおもう?」→マモル「お互いが納得しているなら それでいいんじゃない」→ナカハラ納得のいかない表情でマモルを見る。テルコとナカハラ以外は葉子と同じ振り回すほうなのに葉子のしたことで腹を立てるすみれ。ナカハラは葉子を否定することで議論の幕引きをする。この事件を経てテロップ演出が入る。 それぞれの愛について4通りの変化をみせていく。

○夜のラーメン屋 T中原青
別荘を経て中原青の出した答えはギブアップだった。もう葉子に会うのをやめるので最後にテ ルコに挨拶がてらのご飯。正月に「葉子さんに呼び出されて幸せ、おれじゃなくてもいんです 」と言っていたナカハラ。もう俺じゃないことに苦しくなったと吐露する。だからもう会うの をやめると。理解できないとテルコ。「ふざけんな!自分が好きでいられないから逃げるんだ ろ?」相手の余白を残さないような物言いで怒り ナカハラを糾弾するテルコ。ナカハラのつ ば吐き。葉子さんは俺たちとは違う人間なんですとナカハラ。ナカハラは葉子への片思いを諦める。

○葉子の家 庭先 T坂本葉子
葉子を訪ねるテルコ。ナカハラくんになんでひどいことするのと糾弾するテルコ。葉子のナカハラの扱いに対して怒っている。マモちゃんにはどんな扱いされても怒らないのに。テルコは聞きたかったことを葉子にぶつける。ナカハラが葉子さんは別の人間なんですが違うことを確かめたい。テルコ「葉子ちゃんもふと寂しくなるときある?」葉子「あたしのことなんだと思っているのよ!あるに決まってるでしょ!」同じ感覚があるのだと少し嬉しそうなテルコ。

○テルコの家 T田中マモル
体調不良で初めてマモちゃんの誘いを断るテルコ。実は家まで来ていた田中マモル。オープニングとは逆にテルコに料理を作る。訪れた理由は関係の解消の提案。坂本葉子に咎められ罪悪感が芽生えた。ナカハラの扱いに対してテルコが葉子に抗議した結果、葉子もテルコのために怒って田中マモルにあなたのやっていることはおかしいと電話する。テルコの葉子への抗議が葉子のマモルへの抗議を呼び結果テルコは追いつめられる。切り返しとして私はもうマモちゃんのことを好きじゃないと虚勢を張るテルコ。もう会わないではなくてもっと発展的な関係でいましょうと逆提案。安堵する田中マモル。

○中原青個展会場
ネットを検索したら出てきたと個展を訪れる葉子。葉子の出現に喜んでしまうナカハラ。写真のフォーカス。カーテンの向こうのテルコが虚勢を張ったテルコに見えた。

○レストラン T山田テルコ
マモちゃんが紹介してくれた男性がトイレにたったタイミングで二人で抜けようと提案する。マモちゃんはあの人と二人っきりになりたいみたいなんだ。だから二人にさせてあげよう。トイレの中で少女のテルコが問いかける「それでいいの?」。少女を意にかいさず自分のプランを進めるテルコ。ラストは象を洗うシーン。この気持ちは愛でも恋でもない。そしていまだに私は田中マモルではないで終わる。ナカハラの個展を葉子が訪れる。

・ラストシーンの余韻
報われない片思いに折り合いをつける物語ではなくてマモちゃんも葉子もテルコやナカハラに与えているものがある。このままでも甘いけど甘いが故に苦しい愛と恋は辞書で引くと特別に特定の相手を思い慕うこと。愛の場合はいつくしみの心も含むとある。もはや愛でも恋でもないというのなら最後はなんだろう?突きつけられて考えまた観たくなる。この簡単でない分かりづらさがこの映画のなによりの余韻である。
この映画の大ヒットの要因はリピーターが多いことだそうだ。観た人が友達彼氏彼女を劇場に引っ張っていく現象が発生している。かくいう自分も面白いと思ったこの映画が他の人にどうみえるのか知りたくて親友を連れて行った。ナカハラ刺さったというのが男同士の意見の一致でした。他の人にどう響いたのか知りたくなるのがこの映画の魅力である。

以上

以上と言いつつあと1つだけ
山田さんって呼び方戻されてもマモちゃんって呼び続けるテルコの強さが羨ましい。田中くんにならないのすごい。

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2
※工事中
書きたいこといっぱいありましてこれを読んでくれる人にまずはありがとうございます。

【原作を読んで】
気になった変更点
・原作では中国の王様のエピソードはテルコの話。つまりやっぱりナカハラはテルコのもう一つのキャラクター。

・ナカハラは原作では旅行に行かない。旅行に行ったのは3人だけ。あの食卓の名シーンは脚色の妙だった!

・ラストの〜の場合みたいなテロップはなかった。これも映画としてキャラクター別に答えを用意してて多面的に答えを出してる。

・マモちゃんがお酒飲みすぎで不能になるシーン、映画版では元気になる。原作ではそのまま。

これだけでも映画版すげーなって思ってしまう!

これを踏まえてまた劇場に行って映画批評にチャレンジする。



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【初回レビュー】
・あと2回はこの物語に触れる
仲間内で映画批評の会をはじめまして「31文字以上で書く映画批評の会」というのをやります。略してみそひと会。だから原作も読んで映画もまた観る。批評を書くんす。

とりま初回の感想を。

・切ないオープニングシーンと共感の金麦飲みながらの帰宅挫折

いやこの連絡のタイミングちょうど良いってオープニングがすでに泣ける。返されてお金ないのに金麦煽るヒロイン。ほんとうにいるの?女の子で?いるんかな。

・ナカハラそれ本気で言ってんのかよ!?
正月のちょうどよい距離の人にできる相談。まあ同族狙い撃ち。

「葉子さんに呼び出されて幸せ、おれじゃなくてもいいんです」ナカハラ!それ本気で言ってんのかよ!?お前じゃなくてもよいのかよ!?

・ナカハラ分かる
幸せになりたいっすね。

・◯別荘の食卓(夜)という名のターンテーブルでのキャラクタードミノ倒し。(なんなら俺の体重も)

すみれさんのナカハラいじりからはじまる。(いえー)

すみれ「葉子って最低じゃん」→ナカハラ「葉子さんは最低なんかじゃないですよ」→すみれ「どうおもう?」→マモル→テルコ

って感じにすげーブーメランみんな同じことしてる。すみれさんに罪悪感ないのされないのかもだけどテルコとナカハラ以外は同じことしてる。

・◯ラーメン屋(夜)
ナカハラ→テルコ
ナカハラ「葉子さんのこと思うのもうやめます。おれが葉子さんをダメにしてるのかもしれない」テルコ「ふざけんな自分が好きでいられないから逃げるんだろう?みたいなかんじの台詞。」あれテルコはナカハラに自分を重ねてた、でいいのかな?相手の余白を残さないような物言い。あそこでおれのライフポイント0になったよ。しんどい。

ナカハラの唾吐き。尊く。



・◯葉子の家庭先(昼)
テルコ→葉子
ナカハラの気持ちを葉子にぶつけるテルコ 。葉子に対して葉子も不安になることあるのとテルコ。葉子あるに決まってるじゃない。テルコ嬉しそうだ。

愛が仮にもうその人になりたいって気持ちだとして。すげー像の飼育員やる気持ちすごいよくわかる。好きな人の好きなものを好きになってみたいし真似したい。ダメになっても残るものがあるのかも。

まあテルコやナカハラサイドな自分。見出してくれた人を好きになってきた。

なのでもう一個のアプローチを確かめたい。本当はただ寂しいだけじゃないかってそういう自分の気持ちを潰したい。構ってくれる人がいたらそれでいいのでは?「愛がなんだ」ってか「愛ってなんだ?」

ナカハラ良いよなあ。カメラ良いよなあ。おれもカメラで好きな人を撮ってみたい。みてるって何よりの意思表示だし表現だとおもう。

まあ、原作読んでまた観てまた書く。
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