ナガノヤスユ記

37セカンズのナガノヤスユ記のレビュー・感想・評価

37セカンズ(2019年製作の映画)
4.0
序盤は、いささか分かりやすく配置されすぎたようにも感じる差別描写に頭が痛かったものの、尻上がりにドラマがドライブして、ユマが完全覚醒した後半以降は割と王道的なロードムービーとして、良くも悪くもだいぶ安心して見れた。ポスターのビジュアルなどからもう少しエッジーな造形を予想していたので、ある意味肩透かしだし、逆にいえば、障害者の性や自立、ケア問題といったかなり気を使う題材に、ここまでストレートに正面から挑んで、きっちりドラマとしてまとめあげたのは見事としか言いようがない。(もっと多くの人が見れる映画だと思うけど、あのポスターは正直、日本の観客数を減らす一因になっただろう…そもそもなぜ何の映画なのかまるでわからないビジュアルを作るのだろう…)
よくある日本のドラマ映画のもったり感と比して、編集のテンポ自体とてもいいのに、結果2時間近い尺になっていることに実はとても意味がある。端的にいって、車椅子のモビリティについての映画でもある。(元々企画段階では「駆け足」を意味するcanteringという題が付けられていた)
すごくマルクスかぶれっぽいことを言うと、それはそのまんま障がい者にとっての「交通」でもあり、社会との接合部であるとも言える。
ユマのセリフ「わたしでよかった」、軽いようでいてとても重く、とりわけ現代社会に示唆的な名ライン。
これはもう映画とは直接関係のないぼやきだけど、社会が貧しくなり人の心もさもしくなってくると、障がい者ケアについて浅薄な極論を吐いて溜飲を下げたいだけのやつが出てくる。しかし、国や社会が一方的に誰かに何かを施しているなんて、思い上がりもいいところだ。むしろ社会的負債 (互酬的な負い目) を負っているのは健常者のほうで、障がい者に対してはどれだけケアしてもしすぎることはないし、税金くらいいくらでも差し出して然るべきである。
この映画にも、表向きそれっぽい理屈を並べながら、実はユマを搾取しているだけの悍ましい友人が出てくるが、あれがまんま障がい者に対する現代人の思考だと心得るべし。
彼女ふくめ、映画を通して様々な人間がユマと繋がるが、渡辺真起子演じる障がい者専門の風俗嬢・マイが、ひときわ突出したキャラクターとして目をひく。彼女ははじめ、自分と障がい者の関わりを冗談ぽく「仕事だから」と断りつつ、実は金の話ばかり出てくるこの映画の人間関係のなかで、ひとり圧倒的な無償のケアをユマに与える。(大東俊介演じる介護士は、ユマの感性や行動に少なからず感化され、はっきりと描かれていないが男女関係の可能性も含意されていることから互酬的であり完全な無償とはいえない)
ユマは障がい者ではあるが、就労が可能で、しっかりとこの社会のシステムに適応しながら生きている。内職的な仕事をしている母親の収入は決して多くはないが、本人の収入も合わせれば恐らくある程度必要なケア (女性風俗も含めて) を購入することはできるだろう。にもかかわらず、渡辺真起子がユマに与えるケアは、文字どおり見返りを求めない無償のものであり、この社会における障がい者の存在を、経済的な論理から解き放つ可能性を垣間見せる。相互依存的な互酬関係にある母親との関係からは決して発生しえなかったユマの新たな可能性の扉を開いたという意味で、この映画最大のダイナミズムは彼女のキャラクターにこそ詰まっている。