ナガノヤスユ記

レッド・ロケットのナガノヤスユ記のネタバレレビュー・内容・結末

レッド・ロケット(2021年製作の映画)
4.6

このレビューはネタバレを含みます

まずは相変わらず編集のテンポとセンスが良すぎる。130分の長尺とは到底思えない。これはもう理屈を超えた天性の才能の領域にあると感じる。
そしてもちろん脚本がいい。この編集のソリッドさ、この話で、130分は少し長いから、脚本削ってもいいんじゃないの、とも思ってしまうのだけど、じゃあどこが不要だったかと言われると、何も思い当たらない。せいぜい、マイキーとストロベリーの店でのやりとりの反復を1〜2回減らす程度だろう。しかし、そのやりとりはこの作品中もっともユーモラスでチャーミングな良心的パートのひとつ (たとえ観客がマイキーの邪な欲望を知っていたとしても) であり、ある意味最高の蛇足なので、それを取り除いてしまうことは、単に作品の魅力を減じることにつながってしまう。
と考えて、ふと気づく。この話は終わってみれば、往生際の悪い元ポルノ俳優が、もうすでに人生の落ち目に足を突っ込んでいるにもかかわらず、過去の栄光の復権を諦めきれず、ブスブスと醜い欲望を燻らせつづける顛末を追っているだけなのだが、たとえそうだとしても、ひとつひとつの瞬間にはまぎれもない人間的なきらめきと、生きる喜びとでも言うべきものが充満しているように感じられる。
といって、べつに人間的に彼を好きになる必要はないし、意識的にせよ無意識にせよ、彼に利用され、反転彼を利用する周囲の人々が、一面的には彼の欲望の被害者である事実は変わりない。
しかし、結末まで見てわかるのは、結局この物語には、私たちが安易に想像するような (あるいは、心のどこかで期待しているような) 弱者らしい弱者はひとりも出てきていない、ということだ。
マイキーはマイキーで、彼のレッド・ロケット(動物の猛々しく勃起した生殖器のスラング) にしたがって彼自身の生をまっとうし、ストロベリーやレクシー、義母リル、レオンドリアや娘のジューン、可哀想なロニーでさえも、それぞれが各々の欲望のために、自分の人生の責任を100%引き受けている。
それは欲望の競合であり、時に共闘であり、彼らの中に言い訳はない。その姿は圧倒的にたくましく、私たちの安易な共感や期待の上方を軽やかに超えていく。
そして、「仮の」主人公マイキーに寄り添い、他方では彼を嫌悪していく過程で、最後には文字どおり身ぐるみをはがされてしまう彼とともに、私たちは気づくのだ。この世界の欲望の中心、全ての精神的な根源だと思われていた自分という存在が、必ずしも欲望の主体、絶対的存在ではないということに。それはさも、ドーナッツが欲望の表象であるかのごとく、円環で、中心が空洞の存在なのだ。(ちなみに、『タンジェリン』でもドーナッツ店が欲望の交錯する場所として描かれていたが、同じくA24の『エブエブ』でもドーナッツがキーファクターとして表象されていたことを思い出さずにいられない)
そういう意味では、一見とても自分勝手で有害な男の物語に見えるこの映画は、その実、主体→客体、自己→他者へとひらかれていく、非常にメタフォリカルな脱構築的構造をもっているのだけれども、そのこと自体は別にものすごく新しいわけではない。
が、ショーン・ベイカーの突出したストーリーテリングの妙、ユニークなキャラクター設定と配置、なにより題材への捨て身の接近が、この映画を唯一無二の存在へと昇華している。
これは余談にもなるけれど、ショーン・ベイカーによる「題材への捨て身の接近」について。近年になってようやく少しずつ、安易なPC的配慮が創作に及ぼす両面的な影響について、その評価と反省の分析が理性的になされる風潮になってきた。時代の性格によって、大衆に好意的な題材と忌避されるべき表象というのがはっきりと分かれるようになり、口では多様性と言いながら、画一的な正解不正解の基準が暗黙のうちに決められる。そもそも「コレクト」であるとは何なのか。創作の中だけに目を向ければ、それは「無害」と同義なのかもしれないが、その一方で、表象されないということの意味、現実の存在や現前する欲望そのものが沈黙を強いられ、透明人間のように扱われるということの暴力性と加害性は長らく無視されてきた。
その意味でショーン・ベイカーは、それこそインデペンデント時代の『Starlet』や『タンジェリン』から、『フロリダ・プロジェクト』、そして本作にいたるまでのフィルモグラフィを通じて、圧倒的に逃げていない。あえて「危険な」題材に肉迫しつづけている。

この映画=コンテンツ消費構造の圧倒的な加速によって、文化と呼ぶべきものが風前の灯となった時代に、ショーン・ベイカーは、ショーン・ベイカー (とほんの一握りの作家) だけが、まだ誰も見たことがない物語を今も追っているのだという確信を、本作で私自身またひとつ強くした。
そして、これまで述べたすべての賛辞を差し置いて、ショーン・ベイカーが本作で起用したキャストたち、何よりスザンナ・サンを発見した功績は、どれだけ賞賛されても賞賛されすぎることはないだろう。