まちだ

ジョーカーのまちだのネタバレレビュー・内容・結末

ジョーカー(2019年製作の映画)
4.4

このレビューはネタバレを含みます

公式パンフレットのレビューの内容を踏まえた上で書いてみたいと思う。


「弱い方へ弱い方へ、不幸は流れ込んで行く」と舞城王太郎の小説にもあったけど、
そのことに自覚的に生きている人がどれだけいるのだろうか。誰かを傷つけたことのない人間なんていないし、追い詰められたり損得が絡めば平気で人を陥れるのが人間であるというのは一つの事実だと思う。

あくまで個人的な感想だけどこの映画を観てもっと自分自身の悪を見つめろ、罪と向き合えと言われている気がして胸が苦しかった。

もちろんこんな自分でも社会から逸脱せずにやっていられるのは自分を愛してくれたり手を差し伸べてくれた人のおかげだし人間の善い側面も信じている。
でもそういう愛を知らず育ち、愛し方を知らない人、不幸を背負った普通じゃない人を人々は嘲笑い、踏みつけ、排除する。
そして"なかったこと"にしてしまうのだ。

社会の欺瞞が自明になっているという大前提のもと、それでもなんとか社会を維持するための幻想を守ろうとする側がバットマンだとするれば、それを破壊しようとする側がジョーカー。自分はバットマンの側だと思っていた。でもこの「ジョーカー」を見るうちそれに自信がなくなる。
皆気づかないうちに暴力に加担していてそれがどこかで暴力に繋がる。

私もジョーカーになっていたかもしれない、誰もがジョーカーになりうる、という受け取り方も間違いだとは思わない。
でも大切なのはこの物語を私の物語として受け止めるのと同時に、加害者としての自分を見つめることなのではないかと思う。

劇中、「That’s life」の
"夢を踏みつけて小躍りする奴らがいる でも俺はへこたれない"
というフレーズが流れた時、訳の分からない涙が流れた。

人生がクローズアップで見れば悲劇、ロングショットで見れば喜劇※であるように善悪も絶対的なものでなく視点の問題なのか?

彼がやっと、人生において見つけた輝かしい真実を私たちは全力で否定しなければいけない。
堕天使ジョーカーは「墜ちよ」と私たちを唆す。
私たちは自分の罪を受け止めた上でそれでも善の側に踏みとどまっていられるか、今試されているのだと思う。

※追記。ラストはチャップリンのオマージュになってる…
まちだ

まちだ