キリスト教=白人がやってきたこと。
それは侵略と搾取の歴史。
つまりアメリカ合衆国のこと。
スコセッシの永遠のテーマである信仰心と暴力がそこに重なっていく。
その行き着いた先で、キリスト教が殺してきたものとは何なのかを描く。敬虔なカトリック教徒たったスコセッシが辿り着いた境地とは?
ネイティブ・アメリカンを虐殺する白人ウィリアム・ヘイルはひたすら神の名を説き、関わる人を懐柔し、その後に毒牙にかける。キリストの名を語り、侵略する白人の象徴だ。
凡庸な悪を象徴するレオナルド・ディカプリオ演じるアーネストもまた平凡な一般市民でありながら虐殺に間接的に加担したアメリカ人の代表にも見える。
彼はネイティブ・アメリカンの奥さんを愛しながら殺そうとした自己矛盾を抱えた男である。彼は時に搾取し、時に愛し、そして葛藤しながら流されて毒を打つ自分を見て見ぬふりをする。
それは一般的なアメリカ人というだけでなく文明社会を生きる全ての人にも当てはまるのかもしれない。
文明人だと思いこんでいる我々が破壊してきたものは何か。それは自然という環境であり、また神でもある。
ここで言う神はアニミズムに根ざした大自然。エンドロールで嵐の音が聞こえるのはアーネストの奥さんのモリーが、我々人間は嵐の前では「沈黙」する以外ないという神への畏敬の念をここで知らしめる。
スコセッシの作品「沈黙」ではエンドロールで虫の声が鳴り響いた。神の声が聞こえないと嘆いた主人公に対する返答は自然の声だったのだ。ここでスコセッシは神の声とは大自然だと主張したとぼくは解釈した。
それならばキリスト教の信者であったスコセッシが今、何を信じているのか?
スコセッシと環境活動家のディカプリオが白人達が殺したものはネイティブ・アメリカンの奥にあるものだと言っている。
スコセッシは神を殺した者は自分達なのだと言っているようにしか思えない。
だからこそスコセッシ本人が最後に現れる。
アメリカ人の懺悔を彼が身代わりに代弁した。
それこそキリストのように。