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惡の華のsanbonのレビュー・感想・評価

惡の華(2019年製作の映画)
3.4
"漫画だったから"活きる題材であったと気づかされる映画。

この作品を見るたびに、中学生の頃にこの漫画読んでなくて本当に良かったと思ってしまう。

と、言っても"中二病"的なあれが拗れるからではない。

何故なら、これを見てしまうと中学校の無防備なまでの生活環境に"気付いて"しまうからだ。

今はどうなってるのか知らないが、自分の中学時代を思い返すと、確かに教室が無人になるタイミングは結構多いし、ロッカーは扉すら無い木造の物で、異性の体操着やたて笛やらが、ろくな管理もされずに誰でも手に取ってしまえる状態のまま仕舞われていた。

もっと言うと、僕の通っていた中学はプールが授業がある時以外は基本無人の別館の屋上にあって、更衣室はその一階にあったから、この映画のように授業中に忍び込んで下着を物色する事なんて造作も無い事に勘付いてしまうのだ。

幸いにも当時の僕は、プールで潜水する事に夢中なあまり、そんな事微塵も気付きはしなかったが、もしもこんな事を知ってしまっていたら、正に「惡の華」がこの作品の主人公「春日高男」のように開花してしまっていたに違いない。

そのくらい、中学時代の"性に対する好奇心"や"異性への興味"は冷やかされたくないという"抑圧"された気持ちも相まって常に"爆発寸前"であり、ほんの少しのキッカケさえあれば誰しもが春日になり得てしまう"危うさ"があった。

そして、この作品は正にその"ほんの少しのキッカケ"になってしまえるものである為、マジで中学時代に読んでなくて良かったと思うし、潜水に夢中になってて良かったと思うのだ。

これは、そんな"深層心理"の中に誰しもが持ち合わせるであろう「変態性」を「ボードレール」著の詩集「惡の華」に見立てさらけ出した傑作漫画の実写化映画なのだが、この作品はいわゆる"漫画的表現"だったからこそ傑作になり得たのだと、鑑賞を終えて実感してしまう事となる。

まず、この作品に没入する為に必要不可欠となるものが「共感性」だ。

この作品は、本来共感してはいけない"負の感情"を前面に押し出し描いた内容なのだが、読んでしまうと自分の思春期に感じた"フラストレーション"や歪んだ"憧れ"を嫌でもこの作品と重ね合わせてしまう所に理解を越えた共感が生まれるようになっているのだが、実写だとそれらを感じる事が出来なくなってしまうのがかなり致命的である。

何度も言うが、この作品は「変態性」がテーマであり、それは決して普段の生活で表層に現れる事はないが、どんな人間であれその"素質"は多かれ少なかれ必ず内包しているものだ。

勿論、人は基本それを"自覚"しているし、そんな趣向を"みっともない"と感じ"恥じ"ながら生きている。

だからこそ、そんな"本性"を大々的にさらけ出された場合には、大抵の人は"拒絶反応"が起きるように"心理構造"がそうなっている筈なのだ。

その為、変態性に共感するには実写の映像では情報量が"多すぎる"と言わざるを得ない。

何故なら、漫画は"絵"と"文字"だけで構成されている分、足りない情報は自分の中で"補完"しながら読み進める事となり、絵だからこそ登場人物の中に自分を落とし込めるし、"憧れのあの子"に置き換えて"疑似体験"を想起してしまうのだ。

尚且つ、描かれる描写は決して"逸脱"し過ぎた変態性などではなく、誰もが一歩踏み外した先に簡単に転がっているであろう"極めて身近"なものである為、その"補う"というプロセスにこそ"自分事"のような感覚に捉われ没頭してしまう"カラクリ"があったのだ。

それが実写になってしまうと、"実在する固有の人物"があられもない本性を、ただ眼前でさらけ出す姿というのは"あくまでも他人事"でしかなく、そう感じてしまったが最後"あまりに身近すぎる"変態性は、先述した拒絶反応によって共感からは逆に遠ざかっていってしまうのだ。

また、この作品は捻くれていたドス黒い思春期を"黒歴史"として取り上げているのだが、残念な事に実写化されると途端に、どこか"リア充"のようにも写ってしまう不思議さがある。

なにせ、堅苦しい文学的な小説ばかり読みふけるような垢抜けない根暗男など、女性の目から見ても本来恋愛対象からは即座に外れるであろう筈なのに、事もあろうにクラスのマドンナとは相思相愛で、更には理解されにくい趣味にさえもその娘から積極的に歩み寄ってくれるのだ。

そのうえ、自分のアンタッチャブルな領域である"恥部"を、狂おしいほどに求めてくれるアブノーマルな美少女からも同時にアプローチを受けて、最終的にはそれが発端で破滅へと向かっていくとしても、それも自分が選んで迎えた結末であるならむしろ本望だろう。

そして最終的には、全てを失った後に過去の愚行を全て打ち明けても、それでも寄り添ってくれる"包容力の権化"のような美女にまで巡り会える訳で、入り口こそ最悪であっても、それ以降はやりたい事を散々やって、途中で一度はそれを死ぬほど後悔しても、最後はまたもや美女に愛されて幸せを手に入れ救われるなど、どう考えてもリア充でしかないではないか。

やはりこれも漫画だったから成立した苦悩の描き方であり、実写にした事によりむしろ羨ましさすら感じる展開に変わり果ててしまっていた。

ただ、これに至っては実際にやってみないと分からなかった事ではあるだろうし、仕方のない誤算だったと思う。

これなら僕も、一番好きな女の子から無理矢理処女を捧げられつつ童貞を奪われてみたかったし、一番好きなイカれた女の子と常軌を逸した愚行をあれこれしてみたかったし、そんなエキサイティングな恋愛を経て、最終的には自分と感性が完全に合致する一番好きな包容力しかない女の子とプラトニックに愛し合ってみたかったさ。

という事で、この作品は実写化した事により共感性は"皆無"となってしまい、実写で観るには際どさもいまひとつとなり果てていた為、PG-12を引き上げてR-15レベルの描写まで攻めてくれていたら、もしかしたらまた一味違った見方も出来たかもしれない、なんとも惜しい作品だった。
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