海

行き止まりの世界に生まれての海のレビュー・感想・評価

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思い出の中にいるひとは、どこにいて、どんな顔をしているだろう。わたしはそのひとを、どんなふうに呼んでいるだろう。見える、聞こえる、イメージができる?夜の風にふかれるとき、小さな頃もおなじように浴びていた風を思い出す。狭いアパートの玄関の前。ママの帰りを待って、すぐそこの幹線道路を車がとおる。トラックがとおると、がたがたとゆれる。物干し竿をゆらす。髪を、ほほを、学校のスカートを、なでていた風を思い出す。からだが、すこしずつ古びていくように、心もまた、そうなんだろうか。今思い出せることを、明日は、五年後は同じように思い出せるだろうか。そのときの気持ち、痛み、寒さ、不安や安心のこと。きっと思い出せない。そのときじゃないと、言えないことばかりでわたしの中はあふれる。わたしがわたしのからだを終える日、わたしの心は、なにをおもうんだろう。 いれものだ、って感覚がずっとある。7歳とか、それくらいからずっと。ただ見てるものとか、ただ聞いてるもの、ただ触れてるもの、ただ感じてるものが、じぶんの中にたまっていくというか、巻かれていくみたいな感覚。そういうとき、わたしは話していないし、動いてもいない、かならずじっとしてる。いれものが、いっぱいになることで、あふれたそれを被ったひとの顔に、本当にいろんな、たくさんの表情がうかぶのを見てきた。最低な景色の手前。きれいすぎる夕方の空の下。真っ白い息の向こう。左右違うサンダルがざりって音を立ててこまかい砂を鳴らす音の中。すこし息が苦しくなる。目的地が決まってるわけじゃないのに、わかってますって偉そうに出ていった言葉、言わなかったらよかったけど帰ってはこない自分の嘘や本音、言えばよかったって後悔のせいでずっとあそこに残り続けてる気持ち。ゆさぶられすぎてどんなものか判らなくなった感情、変わらずを得なかった関係。親とか、家族とか、親戚とか親友とか、嫌いになるのって、本当にめちゃめちゃ簡単だ、ってわたしは思う。許すことのほうが、ずっとずっと難しいし、痛みも怒りも抱えて傍で生きていくことも、その人にとっての幸せを知ることも、知ったうえでいつもそれを尊重することも、自分の皮が剥がされるような苦しみを飲み込んで言い争うことも、そうやって離別することも、その人が去ったあともその人に関する自分の言動たちを後悔しないことも、本当に難しくて、一生つかって、いのちかけて、することみたく、感じる。何かに、本気で真面目になる、ってそういうことじゃないのか。眠れないほどの不安とか、身体の機能がどこかしらだめになっちゃうほどの緊張とか、ばぐってうまれるべき感情が出てこなくなるくらいの恐怖とか、いつもいつもある。息ができないから必死で走る、泣くと遅れをとるからくちびるを噛んで。そんなの普通だよって、言われたくないし、本当は死ぬほど言われたい。 彼らが、自分の本当にパーソナルな部分を、ちゃんと自分の言葉で自分の口から語っている姿に、大切なひとの姿を何度も何度も重ねてしまった。ママが、父親と普通に笑って電話できてた日、わたしは心の中でもう二度と掛けてくるなと思ってた。ママを無理して笑わせるなと思ってた。最後まで笑ってたひととか、最後だけ泣いてたひと。なにが自分の心をうごかすのかが、いまだにわからなくて困ることにぞっとする。闇と光り、手がやさしすぎて、なぐられるよりつらい気がした。これを撮って、どうなれるという答えが分かっているわけじゃなくて、答えもどう変われるのかも分かっていないから、撮ったのだろうと思った。ずるさも、未熟さも、押し付けも我儘もエゴも見たし、なによりも、けれど、これを撮らないといけないほどの、想いの蓄積を感じた。この映像が終わったあとや、カメラがそばにいない時間、一人でいるそのときにこそ、本当に言って残したかったことは、彼らの唇からこぼれようとしたのかもしれない、とも思った。あなたにわたしを伝える、自分がずっと思っていたことや、抱えてきた秘密について言葉で伝えることが、ここまで困難で、傷つけあうことを伴って、対話を終えたからといって何かはっきりと片づいた感覚もなく、続いてしまうことに、絶望するし、けれどそれは外から見ると、こんなふうにきれいで、希望さえ感じられるのだとわかって、胸がぎゅっとなった。

「この街は、街灯は確かに少ないけど、わたしの住んでいるところほどじゃない。だけどずっと、空気が澄んでるように感じるのは、海がすごく近いからかな。牛舎のそばを通るとき、ふと立ち止まると、牛はわたしが見てるのに気がついて、じっと見つめかえしてくる。となりの人が言う、不思議ですね、あなたを見てますね。わたしは言う、毎日目が合っていたんですよ。あの目を見ると、切なくなります。どうしてですか。わかりません。わかりませんけど、うつくしいからじゃないでしょうか。それしか、わたしにはわかりません。そうか、そうなんですね。車に乗って、ほとんどまっすぐな道をずっと行く。24時間以上あるプレイリストが、昨日と同じ曲をかける。対向車のヘッドライトが眩しくてスピードを落とす。インターに入る車、ホームセンターから出てくる車、前にいる車のナンバーが1224で、数年前のクリスマスを思い出す。あと2ヶ月以上もあるのに、もうすぐだなぁなんて考える。車椅子に乗って犬の散歩をしているお爺さん。途中で寄ったコンビニの店員が気さくに話しかけてくる。お姉ちゃんあの車。そうそうあの左のですよ。猫のあれかわいいな。てか外、めっちゃ暗いやん。まだ18時やけど、夏終わったな。あはは。もうとっくに秋ですよ。これから寒くなりますね。ほんまにな。ありがと、また寄ってな。みんな、みんなどこへ行くんだろうか。バスから降りてくる中学生の男の子たち。手をつないで歩く女の子ふたり。よく似た顔をしてるカップル。トラックの運転手。夜中に近くを通る車の音。海の向こうから来ていると言っていたあの人。朝も昼も夜も高速道路を行き交うたくさんの車。すれ違う車のなかの人たちは、それぞれみんな違う曲を聴いていて、違うことを想っていて、違う母や父や家があって、違うことのために苦しんでいて、けどその音も気持ちも、灯りも会話も、お互いに知らないままでいる。わたしはそんなものを、ずっと見ていたい。ずっと聞いていたい。ずっと感じていたい。映画を観たり本を読んだり音楽を聴いたりする時間より少しだけ多く、わたしの人生が、映画にも本にも音楽にもならないようなもので、誰にも言うことのできないようなもので、成り立っていてほしい。そこだけに、わたしのほんとうの苦しみが、悲しみが痛みがあるべきだと思うんだ。許せない人がいて、わかることのできなかった言葉があって、わたしを苦しめるひとはいつも、憎んでる人より、愛していて、大切にしたいひとだ。いつか呪いはとけて、いつか一人になる。いつかあのひとがわたしを許しても、いつまでもわたしは、あのときのわたしを許すことはできないと思う。いつまでも、いつまでも消えない光りがあるように、いつまでも、いつまでも消えない暗やみも、またあるのだと思う。私の体。私の傷。私の心。
私の心。」
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