【もっと寛容でおおらかに】
特別養子縁組みという制度は、子供が欲しいが子宝に恵まれなかった夫婦に子供を養育する機会を与え、そして子供を授かったが養育出来ない女性を救済する制度である。
この制度は勿論社会的に意義のある制度であり、この点には異論はない。
しかし、一方で、日本社会における貧困や格差を象徴する側面を持っているようにも思われる。
当然のことであるが、子供を養育するには、経済的な裏付けが必要である。
しかし、子供を授かった側が特別養子縁組みを利用する理由の大部分は経済的な問題であり、そこには子供が欲しい側との格差が存在する。
格差は本来存在するのが当然なのであるが、現代社会においては、過度に否定的に捉えられる傾向があり、そういう意味では、我々は随分価値観の凝り固まった、偏狭な社会に暮らしているようである。
このように社会を偏狭にしているのは、誰あろう我々自身なのである。
日本人の社会は、長い年月の中で、特に世間体と同質性を根幹とすることで秩序を保つよう形成されてきた。
確かにこれについては、これまで良い方向に作用した側面も多々あるだろう。
しかし、現代においてそれは独り歩きし、過剰なものとなり、我々自身を縛り、傷付けているように思われる。
ところで、この作品においては14歳の少女が妊娠する。
少女はそれまで幸福の人生をおくっていたのに、妊娠が発覚した途端、社会不適合者、人生の落伍者のレッテルを貼られてしまう。
しかも自分の身内からである。
確かに、少女にも相手の少年にも、子供を養育することは困難である。
したがって、結果に対して責任を持てないという点についての批判は当然あるべきである。
しかし、行為そのものは、責められるべきものなのであろうか?
それは果たして人格までも否定すべきことなのであろうか?
世の中の人々は、皆、自分のことは棚にあげて、平気で石を投げる。
何となく、村八分を連想してしまい、そら恐ろしくなる。
もう少し、世の中は寛容にならないものだろうか。
作品の元来のテーマからは少し逸脱するが、社会や家族について、改めて考えさせられた。