まりぃくりすてぃ

もちのまりぃくりすてぃのレビュー・感想・評価

もち(2019年製作の映画)
4.1
チラシやトレーラーを見る限り、うるんっとしたキレイさの主役の顔がおもちみたい(つまんで食べたくなる感じ)でしょ? 実際の映画内では、けっしてモチ肌っぽじゃなかったけど詩情を漂わせつつフンイキずっと弾んでて、私の妹にしたくなった。
「女優の自己アピ欲」+「監督の女撮り撮り欲」、っていうよくある悪作風景とは全然違ったよ。本作は、素人の女の子を(主演だから)単にキャメラが贔屓して贔屓して追って、その正当な贔屓に当人のホンモノな映えが応えつづけて結果として作品を最高に支えてる。誰のヘンな欲望も漲ってなかった。
決め手は、その佐藤由奈ちゃんらの、ほとんど演技になってない “棒読みというか、楽な地声以外一切出さない不思議な速さ&媚びなさ” の喋り方!
棒読み邦画の最高作といえば1987年の伊藤智生監督の『ゴンドラ』があって、あれの現役小学生ヒロイン・上村佳子ちゃんの声は恐ろしい低さ&のっぺらぼうさだった(からこそ、「ねえ、死んじゃうと、生きてたことってどこ行っちゃうの?」「ねえ、大人になってよかったと思ってる?」「……もう帰るとこなんてないもん……」等の勝負セリフが私らの痛点を重く突いて後半のカタルシスにつながってくれてた)。こっちの現役中学生ヒロイン・由奈ちゃんは、棒読みのド素人演技者というよりも、じつは “棒読みする意志もなさげ。平然と言い動いてるだけ”! そのうえで「努力しないと忘れてしまうものなんて、何だか本物じゃないみたい」と深げなセリフで小勝負する。
かつてアッバス・キアロスタミが魔術的にやったのと似た作り。出演者全員が素人で、全員がそれぞれ本人を演じ、完全ドキュ部分とドキュ風部分とフィクション部分が縫い合わされたわけで。
後半の、畠山先生のところ等々で、私は泣かされた。
由奈ちゃんのラストの小さな掛け声、の着地、合格。
祖父ちゃんとか友達とか両親とか各人物の掘りは、あの程度で充分。61分という短尺ですっきり終わってくれた見やすさにむしろ大賛成しとく。苦痛がなかったから。
ただ、男児らのおっぱいモチーフは軽やかさが面白かっただけにもうちょっと進めてほしかったな。クラスメートにイケメンが一人いたみたいで、その子の出番がもうちょっとだけあれば嬉しかったな。それと、意中の先輩へのモチの文字消しモニャモニャの後、もう一捻りして文字を「L」一つだけ復活させるとかがあればな。。

演技未経験者ばかりを起用した巨匠といえば、のキアロスタミの三大傑作『オリーブの林をぬけて』『クローズアップ』『桜桃の味』は、どれも私たち鑑賞者の心に一生残るセリフや場面が煌めいていた。に対し、本作にはそこまで印象深いエネルギーはなかった。橋のとんでもない姿以外には岩手県一関市のどの風景が忘れがたいというのもない。
でも、同じく思春期女子を同じく巨橋のショッキングな崩落事故とともに撮りぬいた最近の韓国の二時間超えの『はちどり』よりは、本作のほうが私には素晴らしい。映画の作り手がまるで自分の日記帳の長ったらしい数十頁を他者にぶつけて「一緒に湿ってくれる?」と抱きついてきたようなあのそこそこ巧かったJC映画よりは、小松真弓監督も及川卓也プロデューサーも何か自分以外の者たちのために役立ちたいという願いを真剣に捏(こ)ねて搗(つ)いて形成して私たちに賞味させてくれたって思えるこっちのJC映画のほうが、私には迫ってきたもん。
とにかく泣けた。
人が大切にしてるものごとを、無関係な私まで手を添えて一緒に大切にしたくなった。そんなふうに優しいキモチになれた。
私は都会生まれの都会育ちだけど、この映画はまるで私の家族だ、と思いながら観おえた。

キアロスタミの諸作と違って、映画史において本作は必要不可欠なコンテンツにまではなりえないだろう。どうしてもそこまでのインパクトはないから。
でも、例えば人体において「脾臓」がそうであるように、あってもなくてもどうでもよさげなものでも、きっとちゃんとした役割と価値を持つんだろう。もしも両手の上に、小さな脾臓一つを置かれて、それが恋人やパートナーや親やわが子の脾臓だよと言われたら、愛おしくて愛おしくて、そっと両手でそのまま包み込んでいつまでも持っていたくなる。そんなタイプの良作だった。
日本では、自主映画にこそ良心が消えずに火として灯ってる。少なくとも人生の一時期に命を燃やしてこの物語を創ったらしい小松監督、由奈ちゃん、そのほかの皆さんに、私からの最大の褒め言葉を贈ります。「『続 もち』が観たい」と。。。。。