まりぃくりすてぃ

ブータン 山の教室のまりぃくりすてぃのレビュー・感想・評価

ブータン 山の教室(2019年製作の映画)
3.7
◆ブータンが提唱した “国民総幸福量” について◆

え〜と、まず、「幸福」の対義語は「不幸」じゃないよ。「南極」の反対語が「非南極(南極以外のどこか)」じゃなく「北極」なのと同じだよ。この世に不幸なんて存在しないよ。「幸福じゃない」=「不幸」。そう表現してるだけのこと。「今、幸せかどうか」だけをまずは考えればいいんだ!
(※「恵福」の真逆は「災厄」「災禍」。しかし「幸」という字への対義の字は存在しない。)

では、「幸」の定義は?
幸せとは、「『充たされている』って思うことによって、周り(身を包むすべてor大半の事物)への感謝が自然に自然に溢れてくる心の状態」。わっかりやすい具体例は、披露宴での花嫁の心情だね。列席者たちは本当のところ彼女を祝福するためにいるのではなく、絶頂の高砂の高みから彼女が「今日私が満たされてるのは、今ここにいる皆さん(と全世界)のお蔭ね。ありがとうございます! ありがとうございます!」と一つ一つの顔(とその向こうの全世界)を眺めるためにいる。さらに「私はこれからいろいろ辛い目に遭うかもしれませんが、負けません」と闘いを誓う、その誓いの証人として列席してる。(それ以外には何もない。永遠の幸せとか永遠の愛とか、やめてね。空疎な言葉だから。)

とにかく、幸せは「充たされ+ありがたさ」から成る感じ。だから、あえて「幸せ」の対義語に最も近い言葉を挙げるなら、「うらみつらみ(が湧いて湧いて仕方ない、その仕方のなさ)」かな。

で、競争に勝とう勝とうとガツガツガツガツ生きなくても、もっと手軽に充たされて感謝が自然に湧いてくるようにする、そのためには、だいたいこんなふうにしなくちゃね。
❶ 高望みしない。人生や日々の暮らしにあまり多くを期待しない。欲をできるだけ抑え、淡白に生きる
❷ 謙虚さを心懸ける。特に、この世に産み落とされ、育まれてきたってことを、ふだんからしっかり思う
③ 神とか運命を信じちゃう
で、③はまあ好き好きにやればいい。とりあえず確実に実践可能なのは❶と❷だろう。でも、淡白さと謙虚さで生きてる人って、、、、そんな人のそばにいて、楽しい? 何が何でも友達にしたい? 善い人だろうけども、植物みたいっぽくない???

もしも1965年にミック・ジャガーがすっかり充たされちゃって万物への感謝の念だけで生きてたら、この世に「I Can't Get No Satisfaction」という曲は生まれなかった。ゆるいキースは幸せだったかもしれないし、ブライアンはもっとはっきり厄(~修羅)に突入してたみたいだけど、漠然とでもミック・ジャガーが若者全般の不満の代弁者として立ち上がらなければ、続く「Paint it 、Black」とかも生まれず、広く世界にザ・ローリングストーンズが轟いて魂を震わせ血を騒がすことはなかったんだ。まあ、そんな曲たちはただのヒット曲ってことでもいい。しかし、バンドがブレイク&存続生長した結果、その約9年後に生まれたものは何か????────
幸福からの遠ざかりでブライアンが悲惨な死を遂げ、後釜として加入したミック・テイラーもまた、結局、満足なんかできなかった。すべての者への感謝なんかできない心持ちだった。そのテイラーが、脱退間際に最後の大きな名演を残した。その「Time Waits For No One」こそが、地球上に存在する全音楽中の最高曲(の一つ)になった! ジャガーの書いた歌詞からして、そこに「(真の)幸福」はなかったことがよくわかる。
私は何を言いたいか。幸福じゃないからこそ、人は、物凄いものを創れる・物凄いことができる。そうやって生み出されたものこそが、私たちの魂を奥底から震わせることがあるんだってこと。私は、たった30年ちょっとしか生きてないけど、今までに「Time Waits For No One」を4000回ぐらい聴いてきた。聴くたびに泣いてた時期もあった。私を絞って殺せばその曲が流れ落ちる。私がもしも火星に独りだけ送られて死ぬまで火星で独りで生きなきゃいけなくなったら、その曲(とそれが入ってるアルバム)を持っていく。
私は何を言いたいか! (程度・分量にいろいろあっても)人の不幸という状態が、真にすばらしい、かけがけのない宝を創る場合が多々あるということだよ!! この世には、幸福だけが必要なんじゃないんです。幸福じゃないっていうことこそが、時によっては無限にエネルギーを生むのです。
不幸を恐れるな! 私たちが生まれてきた目的は、「幸せになること」じゃない。全然そんなの関係ない。花嫁&花婿さんは、どうか今後どんどん災厄を経験してほしい。そして、乗り越えてほほえんでほしい。負けないでね、世界! 幸せになるよりも、負けないことを!
何のための負けなさ? 私たち人間は、いや、生き物は、たとえ幸せな瞬間なんてほとんど持てなくても(まあ、たまには幸せな時も要るけどね。でなきゃ心が腐っちゃう)、何か大きな大きなことをなし遂げたり、大きな大きなものを産んだり創ったり、大きな大きなチャレンジをしたり、あるいは大きな大きな夢や愛などに身を捧げて、真っ白けに完全燃焼するために生まれてきたんだと思う!!!

ミック・テイラーは、世紀の名演(作曲にもたぶん相当係わった)「Time Waits For No One」を最後に、ストーンズを去った。その後もしばらく生きてたみたいだが、私にとっては、彼が何才まで生きたとかは関係ない。あの直後に亡くなったとかでも構わない。私たちは、人が幸福でいてほしいとは本当はあまり思わないのだ。
私たちは、誰か真っ白けに燃え尽きた者の大仕事を、大挑戦を、大存在を、大貢献を、大悲喜劇を、受け取って味わって、そうして自分の魂に取り込んで、震わされて、そうして自分もまた燃え上がって燃え尽きたい。そのためには他人の不幸は最高の出汁(だし)となり肉にもなる。蜜の味かどうかはおいて、、
幸福じゃなさは、恐れる対象じゃない。
不幸で構わない。燃えよ、宇宙。“国民総創造量(総燃焼量)” で行け!


◆さて、この映画について◆

良作。こまかな褒めは、ほかの人たちに任せます。私は別のことを。。

「無気力で不平家。町から来たよ。いかにも」ってことで薄い顔の香川真司(見ようによっては布袋寅泰)を主人公ウゲン先生役(チベット系?)にキャスティング。「出迎える田舎の側は、厚意の人だ。いかにも」とばかりに濃い顔の川平慈英をミチェン役(ネパール系?)にキャスティング。「田舎の学級委員JS。目パッチリだよ。いかが?」と派手な顔のペンザムちゃんをペンザム役(ネパール系?)にキャスティング。
采配ミスがあるかな。香川にもっと繊細かつ鮮明な表情演技をさせるか、さもなくば香川と川平を役交代すればよかったのでは?
ペンザムちゃんについても「いかが?」と言外に言われつづけて私は困惑した。ごめん。好きな顔じゃないんだ。教室の別の地味めな少女(あえかな感じのした小柄な子)に学級委員役やらせたほうが映画としてはグッと深みが出たんじゃん? ペンザムちゃんは、可哀相だけど脇役に。目立ちたがり屋っぽい存在感(たぶん本当に目立ちたかったんだろうね)が映画を悪い意味でポップにしちゃってるんだよ。

目を引く映像表現は特になし。高原だから眺めはいい。話としても飽きずに最後まで見れた。

香川をこの映画鑑賞直後だけ持ち上げて観客賞なんて贈っておいてオランダ人やフランス人やアメリカ人とかはその後のコロナ社会でモンゴロイド顔の人々を国籍関係なく迫害とかしてるんだから、観客賞与えた白人そのほかたちと監督(☜まん丸いモンゴロイド顔)に「なぜ、香川なの?」と質問してやりたい。ストーリー上、オーストラリアにシッポ振りすぎな点も、ヘンテコだった。なぜ香川を起用した? 純潔モンゴロイドはそんなに無気力で不平ばっかりでアーバンな顔に見えるの? 正直に言いなさい。