亘

聖なる犯罪者の亘のレビュー・感想・評価

聖なる犯罪者(2019年製作の映画)
3.9
【善人はいるのか】
傷害罪を犯したダニエルは、少年院を退所し遠い町の製材所で働くことになる。しかしその初日に教会で出会ったマルタに司祭だと嘘をついたことで「トマシュ神父」としての運命を歩み始める。

本来神職者になれない前科者が1つの嘘から司祭になった。ポーランドで起こった実話を描いた作品。悪人からの更生を描いた作品は数多いけど本作の主題はそこにはない。ダニエルは司祭になってからも完全なる善人ではないし、ある意味では更生していないといえるかもしれない。けれども彼の行動は一般人以上に善である。"元・悪人"ダニエルの善行と"自称・善良"な住民の偽善を対比することで善悪を問うているのだ。

繰り返すが、本作は"善"を問うた作品。司祭として彼は「形式だけの祈り」ではなく「心からの祈り」を説く。人々は形やレッテルに気を取られ善の本質を見逃しているのだ。元々彼は前科者の悪人。そもそも司祭の服も盗んだものかもしれない。だけれども彼が司祭と名乗り司祭服を着るだけで人々はそれを信じ、魅力的な説教をすれば人々はひれ伏す。「前科者は神職者になれない」という決まりもまた形式的なものである。

それに最も大きいのは、交通事故をめぐる町のしこり。人々は"善良な住民"を名乗り"良心"のもとに男性の妻を村八分にする。一方ダニエルは本質を見て女性に寄り添い住民の偽善を告発する。最終的には女性は町の輪に戻るし、町を1つにまとめた彼の善行の集大成といえるだろう。

ただ"善人"となった彼が潔癖といえない部分が本作に深みを与えている。神父とはいえ彼は酒とたばこを続ける。「禁欲の規則には従わないと」といいながら終盤にはキリストや聖人の肖像画の前でマルタとセックスするし、ドラッグもやる。確かに規則は形式的なもので善行には直接影響しないかもしれないけど、悪人の名残があることでより善の本質について考えさせられる。

[嘘]
ダニエルは傷害罪で少年院に入れられ退所が近づいていた。彼は少年院でのミサのおかげで神職への興味を持つようになっていたが、前科者は神職者になれないと知る。そして退所の日、彼は全くなじみのない町の製材所へとむかう。しかし気の向かない彼が教会へ向かうと、少女マルタに出会う。そこで「司祭だ」と嘘をついたことから彼の運命は大きく狂う。みながそれを信じ司祭となってしまうのだ。

[カリスマ神父]
そこから彼は破天荒な司祭としてキャリアをスタートする。初めは少年院のトマシュ神父を倣っていたが、次第に彼は旧来の風習に囚われないミサを始める。「形式にとらわれず信心に従い神を感じる」そんな本質を迫力のある説教で説く彼はまさにカリスマ。すぐに住民の心をつかむほか若者からも慕われる存在となる。
実際本質的な信仰は、少年院での彼の目覚めに基づく心からの声なんだろうと思う。

[善vs偽善]
そんな中彼は、この町で起きた交通事故に興味を抱く。それは約1年前の夜に交通事故で6人の若者と1人の男性が亡くなった事故だった。そして町の住民は若者の死を悼む一方で男性を犯人と恨みその妻を村八分にしていたのだった。しかしダニエルはマルタとのやり取りや男性の妻への訪問から事件の真相を知る。男性はむしろ被害者であり、町の住民は思い込みから男性を糾弾し若者をかばう自分たちを”善良”と思い込んでいたのだ。そして彼は男性の妻を救うべくマルタと行動を起こす。

["善人"の終わり]
しかし彼の司祭としての時間は突然終わりを迎える。彼の前に少年院の同僚ピンチェルが現れる。一時身の危険を感じたけどもピンチェルの窮状にも共感し互いに語らう。
しかしその後こそが本当の終わりだった。交通事故被害者の男性のためのミサの日、一人の男がダニエルの前に現れ脅す。そしてダニエルは上半身のタトゥーを見せつけ住民たちの前から去るのだ。その後ダニエルは再び少年院へと戻り再び”悪人”に戻ってしまうのだった。

彼が最後に見せるタトゥーもまた善悪の境を問うてるように思う。背中の聖母マリアのタトゥーは一見敬虔なクリスチャンの証拠にも見えるが、一方で体の正面のタトゥーや、そもそもタトゥー自体は神職者にそぐわない。彼の信仰心を示すとともに彼の本性を示そうとしたのだろう。それでもダニエルの去った後にあの教会では交通事故被害者の妻が教会に姿を見せる。それはダニエルの善の名残といえるだろう。

印象に残ったシーン:ダニエルがミサをするシーン。
亘