まりぃくりすてぃ

ふたつのシルエットのまりぃくりすてぃのレビュー・感想・評価

ふたつのシルエット(2020年製作の映画)
-
ブスが仏像に心臓マッサージしたようなジャケ写からして全然フィルマ映えしそうにないから観る気なかったんだけど、、仏像が足立智充さんだと知り、昨暮のあの秀作『種をまく人』での的確な好演を思い出して「足立さん主演なら、ハズレないはず」と私はシアターへ。失礼ながら女優のほうには期待してなかった。
始まってみたら、いきなりのバンド演奏~隠れてたサーファーたちがポロポロ現れて、「何これ、あたし好み!!」
すぐトンネル。台湾映画とかにこういうのあったね。撮影良さそう。
そして足立さんがくたくたと座ったレストランでの、佐藤蛍さんの登場。え? ブスじゃないし! 二人の邂逅・対峙のピーンと張りつめた一挙手一投足に首の動きや表情等々、これ凄い! まるで剣豪同士の厳流島での果たし合いみたいなコンビネーションの、特に蛍さんが凄い!!
だが、口を開いた蛍さんは、ちょっと声が太すぎて、その声は “芝居が大きい” 感じで、自然体すぎて日常的すぎて仏像以上に無気力ともいえる足立さんとは、ちょっとバランスとれてないかも。。。。

全然綺麗な蛍さんなんだけど(ジャケ写は事故にすぎなかったみたい。ならもっと写りの良いショットを使ってよ!)、ずーーーっとスクリーンの中で綺麗だった。派手ではなく家庭的な清楚さが安定してて、いい意味で日本人形みたい。男受けしそう。「こんな女性をお嫁さんにして、穏やかに寄り添い合って、いつでも自由に顔を触ったりキスしたり抱き締めたりして過ごしたいなぁ」って、もしも私が男性だったら夢想するかもね。若い時の吉永小百合を落ち着かせた感じとも、整形顔の鈴木保奈美を小型化して利口にした感じとも、桜庭ななみのすごく地味な妹みたいともいえる。
そして本作のいいところは、竹馬監督があの中川龍太郎とかみたく “好きな女性を撮るために” なんていう低次元な狩猟陳列行為を映画作りの主目的にはしてないところ。女性を撮ることを主目的にするのがなぜ低次元なのかといえば、リュミエールやエジソンが別段そんなのを主目的にはせず映画を発明したからだ。
あくまでも竹馬監督はストーリーを撮ろうとした。とりあえず気の利いた小説家みたいに。
それに応える一人はもちろん安定男優・足立さんなのだが、、、、あれ? おかしいぞ、足立さんの魅力がほとんど引き出されないまま不思議話みたいのが進んでいく。『種をまく人』であれだけ私たちを味方につけた常識人っぽさ・忍耐力ありげ感・地味であるよりもまず実直感・ぱりっとしてしゃんとしててそのうえでしゅぼしゅぼぎゅうぎゅうしてる味わい…………が、ほとんどないぞ。どういうこと?
感じ悪い。足立さんが。
そんなに背が高いわけでもないし、まあ、容姿という点では一目惚れの対象になれる映えはない人だ。明らかにこういう男性は、働いたりスポーツしたり賢さで目立ったり何か困り事とかにてきぱき対処したり、いや何でもいいから実績上げてる真っ最中の姿でこそ女性を惹きつけていくタイプだ。つまり、広めの空間で広く動き回るべき人。
だから、最初から最後まで過去恋や地味現実という狭さの中にうだうだ恋々してる姿しか本作の中に出てこない以上、ずっとずっと足立さんに何の魅力もないのは当然だ。
そして、ずっと綺麗な蛍さんも、足立さんをなじったり裁いたり恨んだりしつづける。低い汚い声で。
足立さんもまくしたてる。粗く汚く。ずっと。ずっと。
その途中に、キスが来る。二度ばかり。キスは悪くはなく良くもない。
わけわかんないな! 映画の良さはとっくに終わっちゃってた。たぶん最最初の邂逅シーンを頂点にして。
ほんと、最初から最後まで男女が喧嘩してるんだよ。現在の二人、過去の二人、服だけ替えて無変化な二人が、想い出の中でも現在進行形でもずーーーーっと喧嘩してる。
聴いていられませんよ。
見てはいられたけど。(それは女優が綺麗でありつづけたから。男優は地味すぎて普通すぎるくせに生活感なさすぎて仏像すぎて仏像のくせに相手を非難しつづけて見ていられなかった。足立さんはこんな男優にすぎないの? 監督の使い方が悪いの?)
喧嘩するために出会った彼と彼女だったのね?
でも、そういう経験って、意外に普遍的。私もそういう不幸な状態に身を置いてたことがある。仮にも少しずつ少しずつ親しくなってって仮にも心の底から求め合い愛し合った二人なのに、時を経て、言い合いに言い合いが続いてまるで「こうして言い合うために呪い合うために出会った私たちみたいだね」ってなること。人生に、この世に、そういうのってなくはない。
でも、それはスクリーンの中で必要なリアル? 映画が私たちに喧嘩を見せつけつづけてどうするの?

どうすればよかったか。ドロドロ話には鉄則というものがあるんだよね。
前半とか(せめて序盤とか)回想部分とかに、楽しい素敵な場面をいっぱい用意すること。二人が仲良くやっててそれ見て私たちもみーんな眉が下がる、そういうハッピータイムを充実させて、その後に不幸タイムで人物たちを私たちを苦しめるのが、いい。それなら耐えられる。最初から最後までほとんど言い合いばかり、というのはよほど面白い台本にしない限りダメなんです。
それか、もう一つの案。聞き苦しい言い合いが多すぎるせいで私たちをムダにいたたまれない気持ちにさせるのだから、画作りはこのままで、全体をサイレント作品にしちゃうこと。もちろん、中間字幕は吟味して厳選して最小限に。そうすりゃ、女優美とかで、監督が勝つ。おめでとう!(☜勝った場合。)

あと、中盤ぐらいで私は、こんなことを思ったよ。佐藤蛍は蛍でたしかに魅力あるけど、この映画内容だったら、もっと別の俳優で行くのがいいかもね。男優はもっと目につくようにブサイクにして大柄にして(お笑い芸人の中からチョイスすりゃいい)、女優は猫目はち。てか、猫目はちさんなら「私がこの映画には主演したかった! 私が監督もやりたかった!」とか言いそう。彼女は彼女で実力と我の強さがあるからね。

と、そんなことを考えた後、映画が突然終わって、エンドロールを読んでたら、なぜか突如「猫目はち」という名前がどこかに書かれてるのを見つけてビックリした!!!(何の項目だったのかは見落とした。何かの協力者? エキストラ?)
こんな「的中しちゃった」みたいなどうでもいいことを書いて私は何者になっちゃったんだろう!!!! イタコ?

てことで、中川龍太郎映画っぽくしなかったのは竹馬監督の誠実さだけれど、猫目はち映画へと達観&突進&泥沼バンザイできなかったのは竹馬監督の力量不足。かも。


ふう。。 頑張っていっぱい書いた。。。。