始まった瞬間、ん?
ぜんぜん好みじゃない魔法少女もののアニメが始まる。すぐに終わるのかと思いきや現実に戻っても、しばらくそのくだりが続く。
アニメーションも音楽もなんだかガチだし、どこに本気出してるんだこの映画は…と困惑する。
そしてやたらとハイテンション。
全くついていけない…
沖田よ、ご乱心か?
それから2時間後。
ぼくは『魔法左官少女バッファローKOTEKO』の曲を聴きながらさめざめの泣くことになる。
あのついていけないファーストシーンを愛おしく思う。
そう。
全ては沖田、上白石の企みだったわけだ。
最近のコンテンツの多くは、ボール球を振らせるストレートだと思う。
スマホで気軽に時間が潰せるようになった昨今。とにかく急速の早いコンテンツでないと、飽きられるから。でも所詮、ボール球だ。
一方で『子供はわかってあげない』は大外からど真ん中に曲がってくるカーブボールだ。何故そんなところにボールを放るのかと呆気に取られていたら、いつの間にか三振を取られてるような映画。
「娘が記憶にない父親に会いに行く」というのは、非常に難しい設定だと思う。
映画において、父親とは最も蔑ろにされがちな存在だ。ヒッチコックの名作『サイコ』を思い出してくれ。父親なんて、いたのかいなかったのかすらよく分からない。
それでも、父親を描く作品はたくさんある。でも、多くの場合息子と父の組み合わせであって、記憶に残ってない父と娘の組み合わせはだいぶ珍しい。
こんなものはストレートでリアルに描くのは無理で、大外から曲げる必要があったのだと思う。
こないだ若葉竜也さんのインタビューを聴いていたら、
「人は弱いから、映画のように簡単には泣いたり怒ったりできない」ということを言っていた。
ほんとうにそうだと思う。
我慢してしまう時もあるし、なんなら自分が悲しいのかどうかも分からずに生きていたりもする。
自分一人で強くなんかなれない。人と関わり合う中で、感情に気づく強さ、泣く強さを身につけていくのだと思う。それは劇的な出会いによってではなく、なんとなくじんわりと起こっていくのだ。
あんな風に思い出に囲まれながら走られたら、本家『大人は判ってくれない』も救われるだろう。