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バビロンのHARUのレビュー・感想・評価

バビロン(2021年製作の映画)
3.9
「綺麗事だけで映画愛を語るなど傲慢だ」と胸倉を掴まれて、口に腐った臓物を詰め込まれた感覚。
脳を直接殴られるような映画だった。
脳を殴られながら確かに映画の勝利を見た。

いや、「映画の勝利を見た」は語弊があるな。
決して”誰が勝ち馬に乗れたか”を描く物語ではない。
”映画というコンテンツそのものが勝ち馬に乗るため”に、歯車として人々が血と涙と吐瀉物と悲鳴ごと組み込まれる物語。

不快、って感想が圧倒的だけどそりゃそうなんだよね。
キラキラしていない“エンタメ消費者が観たくないもの”を全力で叩きつけられるので。
この不快感が無理な人はたぶん冒頭20分程度で席を立つレベル。
その人が悪いとかではなく、普通に倫理的に引っかかる部分があるし、監督のファンダムさえドン引きさせてるから、シンプルに好き嫌い、いやむしろ耐性?の問題。
チャゼル監督、映画を愛していて同時にひどく憎んでいるのかもしれない。
正確に言うと、映画の綺麗な側面ばかりを押し出すハリウッド映画と、それが好き♡と宣う高尚な消費者を。
ゔっ...刺さる........
時代が変化する瞬間の隙間があって、そこで必死に息をした人々がいるのに、彼らの痛みさえ永遠にしてしまう残酷さこそが”映画”だぞ、って。
おまえらが清らかな宝物のように崇める映画というコンテンツは、こんなにも汚物にまみれた代物なんだぞ、って。
(まぁこういうメタ的な描写でないと映画愛を語れなくなってるって意味でもあるので、そこは賛否両論しかたないが)

わたしはノーラン監督のファンだから、彼の映画愛と比べてしまうのだけど、映画愛というか観客への信頼度が違うのかもしれない。
ノーラン監督は映画を映画館に観にくる人を全力で信頼しているけど、チャゼル監督は映画を映画館で観る人を信頼できないことに絶望しつつ、どうにかして信頼したいと期待をかけているんだろうね。
躊躇いを吹っ切れていないというか。
彼のこの矛盾が、この映画の空虚さを生んでしまっているんだろうなと思う。

あと同じ監督だからってラ・ラ・ランドの名前出すなーー!!たぶん相互に悪い影響ある。
チャゼル監督のオタクが「ララランドを期待してバビロン観るとたぶん途中で嘔吐するし、バビロンの狂気に染まってララランド観ると生ぬるく感じると思う」って言ってて大笑いしたけど、笑い事じゃないよな......

でもキャストは本当に素晴らしかった。

マーゴット・ロビーにはとにかく脱帽だった。
「ああこの輝きこそがこの汚い世界の中の僅かな真実だ」と、スクリーンの外にいる私たちでさえ確信させるパワーがあった。
押しつぶされて骨が軋んでいようとも、彼女は最後まで彼女自身が誇れる最高のスターだったし、彼女自身をスターであれなくしようとする世界にさえ、果敢に挑んでいた。
彩度200%の人生ってこれだな。

そしてブラピ。ブラピブラピブラピ〜〜〜〜!!!!(号泣)
映画を愛したせいで切り刻まれて、時代に置いて行かれた巨人の呆然とした瞳は秀逸。
時代は進んでいくのに、彼だけはまるでずっとおとぎ話に生きているようで、どうしようもなく過去の遺跡だった。
残酷な消費者によって消化される脆さ儚さは、ブラピという俳優だからこそ出せる味じゃんね(説得力が違うんよ)。

ディエゴ・カルバもすごい。
これまであまり触れてこなかった俳優だったけれど、大好きになってしまった。
憂鬱な瞳が突然輝きだす瞬間を私たちが鮮明に覚えているからこそ、彼がやつれ疲れ人の夢を傷つけ、自分でもどうしようもなく“綺麗でなくなっていく”描写は痛々しい。
映画を愛するには映画から離れるしかないのだ。なんて悲しい。
スクリーンの向こう側がきらめいているのではなく、こちら側から観る時だけスクリーンがきらめくのだ。
やはりこの映画にはひとつまみの憎悪が混じっていると感じる。


あと知識的な話をすると、1930〜50年代の映画および映画俳優を把握していると数倍楽しめる。
今から履修はきついと思うので、『ザッツ・エンターテイメント』とか観ておけば良いかなと思うよ。
あとハリウッドの暗い側面に関しては映像の世紀がまとめてるからそれもぜひ。
HARU

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