ルサチマ

すずしい木陰のルサチマのレビュー・感想・評価

すずしい木陰(2019年製作の映画)
4.6
資本の掃き溜めとしての都市・池袋の夜中に緑の木々とその下に吊るされたハンモックで眠る柳英里紗の姿が映写されるスクリーンを見て、革命の成功と呼ばずになんというべきか。ここで体験する時間と空間は決して眠りに誘うような安らかなものではない。それはベッドに横たわりながら、世界を見つめ詩を綴ったブスケのように強烈な眼差しで切り取られる時間であり空間だ。

デジタルカメラを用いておきながら、カメラを自由自在に動かすことは断固として拒否され、一度決定された構図を揺るがすことがあるとすればそれは風に揺れる木々や、照りつける太陽光に生み出される木陰の動き、そしてハンモックに身を任せながらいつカメラの裏側の世界に立つ人間に対してレジスタンスを起こすか分かったものではない柳英里紗の佇まいによるものだ。

撮影現場に起こる上記のようなハプニングを堂々と引き受けながら、慌ててカメラポジションを変えることは勿論、カメラの裏側へ俳優がレジスタンスを起こしたとしても決してフレームの中の世界に安易に引き寄せられることはない(カメラは地面に釘を刺した!)。

この断固たる決意表明が共有されたとき、映画の原始的体験に立ち会うような、演出の根源的な力が蠢き出す。
ハンモックに横たわる柳英里紗に自分を重ね合わせて「すずしい木陰」を堪能しようとすれば、たちまち柳英里紗は唯一この映画の演出を引き受けた人間として、フレームの中の世界を異化するようにカメラを凝視して、ハンモックから身を起こして立ち去るだろう。

その時カメラは照りつける太陽の光線に白飛びしかけながらも、決してカメラ裏の人間も光量を調整するような技巧に手を貸すことなく太陽光の推移と、逆光に照らされながらハンモックを一度立ち去る柳英里紗を見守る。

フレームの中の世界が異化され、汚れた池袋にいる観客の現実世界と接続されるとき、柳英里紗が離れて空いたハンモックへ、観客はついに自分の横たわるスペースを見つけることが許される(もちろん、このつかの間だけ空いたハンモックは数分ほど経てば柳英里紗が再び我が物として横たわるのだが)。

中盤まで無国籍的であったはずのフレームの中の世界は、この柳英里紗のレジスタンスを機に、夕暮れ時を知らせる日本的な音楽が響き渡る。

長い長い時間の経過の中で、次第にこの緑のすずしい木陰で横たわる柳英里紗を、現実世界から隔離されて暗闇の中に身を置く自分自身のこととして見つめる視座を獲得していく観客は、この断固たる抵抗によって作られた世界をようやく安らぎの時間と空間として認識できる。

尤もその安らぎとは単なる世間一般で求められる生ぬるいリラックスを促すものではなく、死の体験と結びついた危険を孕む安らぎだ。

スクリーンがついに暗転しても聴覚的に聞こえ続ける自然の音はその危険な安らぎの中で眠りこけることを辛うじて食い止め、観客を呼び覚ますものとして強烈な喚起力を担っている。
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