レインウォッチャー

マグノリアのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

マグノリア(1999年製作の映画)
5.0
いわゆる群像劇というスタイルが好きになったきっかけの一本で、一見無関係な登場人物たちをつなぐシンクロニシティ(共時制、超常的な意味のあるような偶然の連鎖)がテーマというかフックのひとつになっている。
とても好きな映画で、折に触れて何度か観ている。3時間あるので少しばかり思い切りが必要だし、展開もどちらかというと淡々としているのだけれど毎回すこしずつ感想が違うようで、付き合いの長い作品だ(そして、きっとこれからも)
今回はこんな感じ。↓↓↓

これは「話す」ことについての物語かもしれない。
ここに出てくる人々はいろいろな形で「話」をする。会話、質問、尋問、願い、演説、それに告白。さらにはラップ。言語によるコミュニケーションはヒトが他の動物とは違った進化をしてきたうえで最も根源的な能力である、ということは多くの人に異論がないと思うのだけれど、もしかしてそれは大きな「錯覚」に裏付けられたて成り立っているんじゃあないだろうか。

つまりは、話すことによって他者にも同じ意思が伝えられる、理解してもらえるという錯覚である。このある種の思い込みによって、人類にはこれまで良いことも悪いことも色々なことが引き起こされてきた。この映画に出てくる登場人物は性別、年齢、地位などバラバラなのにみな一様に孤独で、誰かに側にいてほしいと強く願っていて、一方でそのエゴにもどこかで気づいていて、その思いをどうにか他者に伝えたいともがいている。だがそれらは往々にして、本人たちの願いとは裏腹に100%の純度で伝わることは決してないことがわかる。もちろんそれはわたしたち自身の投影に他ならない。
他者と同化したいという本質は誰しも変わらないはずなのに皮肉でまどろこしいことではあるけれど、その錯覚とあがきが生きる意思や希望にもつながっている。そんな円環を感じずにいられないのだ。
エンディングでエイミー・マンが歌う「Why don't you save me?」という詞が、そんな諦めと少しの希望に寄り添うように響いている。

物語の終盤にはちょっとした天変地異(ファフロツキーズ現象)が起こり、単調だった空気が一変する。この意味はなんなんだろうとずっと考えているのだけれどうまい答えは見つかっていない。
人はいつも孤独の中で、その孤独がすべての悲しみであるように思いがちだけれど、実はコントロールできるものなんて自分の人生の中ですらほんのひと握りしかないということなのかな…そんな思いに、とりあえずいまは落ち着けている。

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あとこれはどうでもいいメモ。
トム・クルーズがモテ術を説くカリスマ講師みたいな役を演じている。今の世ならさぞかし巨大なオンラインサロンやらYoutubeチャンネルを運営していそうな勢いに見えるのだが、「それはトムの顔面&ボディだからじゃね?」と思っちゃいませんかね。それこそジョン・C・ライリーかホフマンみたいな男が言うほうが説得力ありそうだけど(失礼)。これもまた時代感かな。