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私をくいとめてのshishiraizouのレビュー・感想・評価

私をくいとめて(2020年製作の映画)
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この映画の基調となって、ふわふわと、きらきらと、プラステックに、あくまで楽しげに浮遊する音楽、大瀧詠一『君は天然色』。その人工的なハッピーさにはどこか空々しさの気配がある。じっさいはモノクロであるものへの色を加える、それを天然と呼称する歪さに、平和で静かな幸せが宿す不穏の予兆。

近所のお惣菜屋さんで偶然会ったふたり。先に店から距離を置く能年さん。と、総菜屋の店先と、その奥の家屋部分で子供やら身内らしき家族とのやりとりの、微妙な長さの異様さ。
あるいは、荒れ模様の天気のなかレンタカーを走らせる林遣都。イライラしている、不穏な空気。
これらの場面は、みているときは異物感としてのなにか不穏な予兆の感触を、まずは感じさせますが、やがて、前者は能年待つ→林が呼び止めるの時間経過のための描写であったと判明しますし、後者は、林くん演じる多田くんが単なる都合の良い天使的な存在ではなく、実際の男性だと示す効力のある、合理的な描写であると分かってきます。

この『私をくいとめて』には、ラフかつポップな日常が雑然と並んでいるように見えますが、おおむね周到に配置された幸せのなかの不穏が、合理的かつ理知的に存在する。
みつ子が軽やかにA と語らう設定から、すでにカタストロフが予感されますが、苦難の道をこえてこの映画の主演にとしてここに映る笑顔の能年さんに対して、例えば満島ひかりとかに与えられるような、そうそう酷い、痛すぎる辛苦は降りかからないだろうという、願いのような安心感はあります。その意味では能年さんは、現代的な映画女優というよりは真正のスター女優でありましょう。

乗り越えられる試練しか与えられない云々といった言葉を想起するような、安心のある繭のなかでの痛み。その彼女を護る膜が臨界に達するのは、(ある種予定調和的な)ホテルでの独言の暴走でも、海に現れるA でもなく、
イタリアで恐る恐る外出して、マスクをしている橋本愛の姿。そこに今の今の時代の、露わな〈現実〉の痕跡が刻まれる。
あるいは、そのイタリア旅行(=イメージを現実化すること)の“練習”としての温泉旅行。このイメージトレーニングとしての現実のなかで、みつ子は大広間で、存在しない者を妄想して生きる女性のコント(みつ子の生き抜きかたと重なる)を見る。その女芸人は、無遠慮な男性観客の、性欲的で暴力的な押しつけがましさに圧迫される。みつ子はそのさまに感応して傷ついてしまう。(試行としての旅・自分の代わりに妄想を生きる女性・自分でない者への加害といった、二重三重のフィルターが不意打ちのように破られ、距離を無効化して、傷をつける。)屋外に出て、泣きじゃくる能年さん。その純で、弱い魂の、ほんとうにかんじられる痛み。迫るものがあった。この心には、ほかの人には普通であることも、過酷なのだった。じっさいの旅となる、イタリアへ向かう飛行機内での執拗な苦しみの描写も、その飛躍への抵抗の厚みを体感させます。

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傑作感のつよい『勝手にふるえてろ』はラスト、玄関でキスする決着までの流れにどこか、終わるためのウソが感じられましたが、今作のラスト、飛行機内の苦しみからの希望の場面。そういう相手が出来たから解決ですとは終わらず、不安だけど信じていこうという意志として、まっすぐカメラを見つめる能年さんの瞳があって、そこに信頼があると思いました。
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