keith中村

ベイビー・ブローカーのkeith中村のレビュー・感想・評価

ベイビー・ブローカー(2022年製作の映画)
5.0
「是枝監督第三形態:ポスト樹木時代の幕開き」
 
 とまあ、意味不明な書き出しになりましたが、説明しましょう。
 本作を観ているうちに思いついた私の仮説なんですが、是枝監督作品は、
1. 先樹木時代
2. 樹木時代
3. ポスト樹木時代
 と3分割できるんじゃないかと。
 
 「先樹木時代」。「先土器時代」みたいですが、これはデビュー作「幻の光」から「花よりもなほ」までの5作品が撮られた11年間。
 
 「樹木時代」は「歩いても歩いても」から「真実」まで。こちらも同じ11年間ですが作品数は倍の10本。「真実」の「男性チーム増し増しバージョン」を数えると11本になるけれど、ともかく本数がこれだけ増えたのは、評価され、引き合いが多くなったからでしょう。
 
 そして、本作から後が「ポスト樹木時代」となります。
 「真実」を分岐点とすると、「海外進出時代」とも言えますが、私の持論では「真実」はまごうことなき「樹木時代」なんで、今回からがポスト樹木時代です。
 順に見ていきましょう。
 
 まず、「先樹木時代」の作品は、自身のルーツであるドキュメンタリーの手法を取り入れたりもするけれど、まだ「樹木時代」に通底する「家族」「疑似家族」のテーマ性はあまり見られない。
 「試行錯誤の時代」というのはあまりに恐れ多いので、「試作の時代」とでも言いましょうか。
 あと、この時代はまだまだ監督主導では撮れなかったはずですね。
 私は是枝作品はすべて大好きなんですが、この時代の私的ベストは「花よりもなほ」かな。
 
 で、続く「歩いても歩いても」以降は、Coccoのドキュメンタリーと、「空気人形」「三度目の殺人」を除くすべての作品がホームドラマの脱構築ないしは現代向けアップデート。
 「歩いても歩いても」で是枝監督は樹木希林という「異物」を手に入れるんですね。ちなみに「歩いても歩いても」が今日まではマイ・ベスト・是枝でした。今日更新されたなぁ〜!
 
 樹木希林。
 ほんとうに素晴らしい役者さんでした。私は年老いた映画人の訃報に際して泣くことはあまりないんですよね。まあ、順番だし仕方がないと思うし。でもね、樹木さんの訃報には泣きましたよ。
 
 樹木希林は、フルアコのエレキギターみたいな人でした。例えばギブソンのES-175みたいな。
 ロックバンドは、フルアコ滅多に使わんでしょ? 比較的よく使われるのはES-335か、その廉価版的位置づけのEpiphon Casino。どっちもセミアコなんですよね。
 ロックは何しろでかい音を出すんで、フルアコは向いてないんです。すぐハウっちゃう。
 ところが、是枝裕和というギタリストは、樹木希林というハウりやすいギターを完璧に制禦して、完全な演奏ができたんです。
 
 樹木希林にハウリング起こさせちゃってる映画、あるでしょ?
 まともに書いたら失礼なんで、ぼかして書きますが、「ろくろ回して"Unchained Melody"」のリメイクとか、「接続する」みたいなタイトルの幽霊が見える映画とか(ま、どっちも樹木さん以上にシナリオが悪いんだけどね)。
 樹木ギターは扱いが難しいんですよ。でも、是枝さんは完璧に弾きこなした。
 
 もちろんそれは樹木さんというギター自体にポテンシャルがあったからなのは間違いないですよ。
 凄くいい楽器なんです。
 ただ、誰にでもおいそれと弾きこなせる楽器じゃなかったというだけ。
 
 是枝作品の樹木さんは、いい音色なんです。ただし、ところどころまあまあ歪んだ音を出す。
 ディストーションを強めにかけてピッキング・ハーモニクスを弾く感じ。
 これが、「樹木時代」の是枝作品に通底する「ひずみ」。
 
 「歩いても歩いても」の樹木さんが垣間見せる「怖さ」って溜まらんじゃないですか。
 「こわっ!」とか思うんだけれど、でも客観的に考えると、「そりゃ、この人の立場なら、そう思って当然だよな」ってなる。言い換えると、樹木希林は「映画と現実に接点を持たせる装置」であり、「観客の視点を相対化させる装置」なんですよね。

 もちろん、樹木希林が出演していても、ほかの役者が「観客の視点を相対化させる装置」になっているケースもあります。「そして父になる」なんかは、主役の4人というか、子供含めて6人というか、その全員を、我々観客は、現実の視点からコントラバーシャルに見ることになる。
 逆の例が「真実」です。あの映画、ドヌーブさん出てたっけ? 思い返すといっつも樹木さんで再現されるんだよなあ。
 っていうくらい、ドヌーブさんの存在は、樹木さん亡き後の樹木的存在として描かれていた。樹木さんにしか見えなかった。
 
 いちおう断っとくと、「真実」がクランクインしたのは2018年9月に樹木さんが鬼籍に入られたすぐ後で、ということは脚本の完成は樹木さんの生前となります。だから、「樹木さん亡き後の樹木的存在」とは是枝さんが思っていたわけはないんだけれど、もしあれが邦画として製作されてたなら主演は間違いなく樹木さんだったろうし、是枝さんが「樹木さんアテガキ」を意識して脚本を書いたという勝手な想像は、当たらずとも遠からずだと思います。
 
 とにかく、「樹木時代」のホームドラマは、樹木さん的存在によって、観客をスクリーンの向こうに完全には同化させず、「この人たち、これでほんとに大丈夫なの?」という、相対的で批評的な視点を我々が持つように作られていた。
 
 そこへ来て本作です。すみません! 前置きが長すぎますね。
 
 さて、私は「こないだはドヌーブさんだったけど、今回は誰が樹木さんになるんだろうな」と思って観に行った。
 いませんでしたよ、樹木さん。
 いや、もちろん樹木希林が出てないのは当たり前なんだけれど、今回は樹木的存在がいなかった。
 ペ・ドゥナちゃんが最もそれに近い関係性なんだけれど、この人はずっと今回の家族たちと接点を持たない「観察者」の役どころなのね。おまけに最終的には、そのペ・ドゥナちゃんまで相対的な視点をかなぐりすてて、この家族たちの「想い」に飛び込んでゆくの。
 
 えーっと。
 私は本作を批判しているわけではありません。じゃなくって、その正反対。
 この「相対的・批評的視点の欠如」を持って、本作が気に入らなかったという人も一定数いるんだと思います。
 でも私はこう思っちゃったの。
「この映画はなんて幸せで優しい世界を描いているんだ」
 ちょうど中盤くらいに洗車シーンがあるじゃないですか? 彼らが家族になった瞬間ね。もう、あそこから後半はずっと泣いてた。
 幸せなものをずっと見ていられる嬉しさで、ずっと泣いてた。
 古典的ミュージカル以外で、こんな多幸感とともに涙を流すことって、ほかに何があったっけ?
 
 それで思ったのです。
 是枝さんは、今回あえて樹木的装置を組み込まない映画を作ったんだ、と。
 だもんで、いちばん初めに書いたように、ここから先は「是枝監督第三形態:ポスト樹木時代の幕開き」である、と確信したのです。
 わかんないですよ。今回たまたまそうだっただけかもしれないし、ブレイク前の橋本環奈ちゃんが出てた「奇跡」は、樹木時代の作品だけど、すでに本作と同様に相対的視点がほとんどなかった。
 ただ、ね。何故だか私は確信しちゃった。
 ポスト樹木時代の幕開きですよ。
 ちょっと、是枝監督! 凄いじゃないですか。
 第三形態。ゴジラで言うと「品川くん」じゃないですか?!
 ゴジラは第五形態までいきましたからね! 是枝さんもこれから11年周期でどんどん形態を変えるんじゃない?
 
 あ~。なんて楽しみ。
 そんでもって、本作はなんて素晴らしい作品だったんだろう!