レインウォッチャー

サン・セバスチャンへ、ようこそのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

3.0
人生の意義と夫婦生活、いずれにも悩む初老の男が、旅先で愛するクラシック映画の世界に迷い込む…
という、『ミッドナイト・イン・パリ』とほぼ同じレシピのコメディ。主人公が小説家志望だったり、公私ともに脅かすコンプレックスの具現化のような男の存在、承認欲求を慰めてくれる神聖な別の女との遭遇…といった要素もそのまま共通している。

ここでまず総論だけ書いておくと、上記のような過去の自作の縮小再生産のような印象が拭えない作品だった。
たとえば映画の中に入り込んだり、敬愛する巨匠の世界をオマージュ(というか再現)する、といったことも『カイロの紫のバラ』や『スターダスト・メモリー』で既出なわけだし、それらの方がもっと巧くて深かった。言い方を変えれば、詩があった。片や今作は、うーん、おじさんがコピーバンドではしゃいでるのを素面で見守るに近い気恥ずかしさと共にある。

迷いまくり逃避しまくりの主人公が、映画という《夢》を通して自分の思考と人生を棚卸しする話(※1)、としては一応の筋は通っている。
今作の主人公は典型的な権威主義・懐古主義への偏りが極端に強調されていて、何重もの防護壁の内に逃げ込んでいる人物。それ故に、自分が本当に求めているものも見失っているのだとわかる。

そんな彼が昼に夜に夢想するクラシック映画の世界では、少年期から現在に至るまで関わった人々がキャストのように登場し、彼を批判したりする。
これはたぶん彼にとって《箱庭療法》みたいなものとして作用し、時と共に縮こまり糞詰まりになった自己を客観視して解きほぐす効果をもたらした。冒頭から主人公がカウンセラーに語りかけるように始まるのも、このようなセラピー的側面を想起させる。

一方で、主人公以外のキャラクターは誰もが記号の域を出ていない。それこそ、古典的な芝居のキャストのように、主人公のセラピーに奉仕する「役」をこなすのみだ。
あるいは、今作全体が主人公の偏った主観から見て都合よく脚色されたお噺で、それをカウンセラーに語っているとか…?これは流石に妄想レベルの読み方だと思う(※2)けれど、そんなことを思わせるくらいフワッとしていたのは確かなのだ。

新鮮な恋という逃避先に燃え上がった主人公が、最後には現実的な折り合い地点へと戻される着地もまた『マンハッタン』の昔から変わらないし、2000年代以降定期的に撮っている手軽な観光ロマンス的な面もある。
そういう意味では、W・アレンにとっても80を越えての棚卸しというか、ポートフォリオ整理だったのかもしれない。ただ、ここ最近は某ヴァーホーヴェンとか某クローネンバーグとか、老いてなおファイティングポーズを一切崩す気のないモンスターお爺ズにビビらされてばっかりだったので、見劣りに寂しかったってのもあるかも。

個人的には、ここ数年のゴタゴタをグツグツに煮詰めた毒々しい一発をお願いしたい(※3)のだけれど…なんだかんだ、次も楽しみに待ちます。

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その他、咀嚼しきれなかった要素のメモ。
頻出するボーダーのモチーフ。
やたらオレンジな西陽、斜陽?

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※1:直接的な下敷きは、劇中でもしっかり再現するベルイマンの『野いちご』なのだろう。残念ながら上澄み程度だけれども…

※2:オープニングでかかる楽曲は、スタンダード曲『Wrap Your Troubles in Dreams』。「悩みは夢に包んでしまいましょう」なんて歌うこの曲を踏まえると、案外この説、ない話でもなかったりして。

※3:この記事を読む限り、まだ期待できそうだぜ。
https://www.vogue.co.jp/article/woody-allen-metoo-movement-becomes-silly