なんだか寂しくなってしまった。ああ、もうウディ・アレンも終わりが近づいているのだと、加藤茶の終活のCMを見せられているようなそんな気持ちに。
ウディ・アレンのすべての作品を見てきていると思うが、Respectを捧げていた監督作をここまであけっぴろげに引用することはなかった。古典さえ見ていない大衆へあえての皮肉と捉えるべきなのか、影響を受けすぎたヨーロッパでの名作を巧妙にパクって「アメリカ映画」にしてきた、その力さえも今はなく、そういった考えさえ面倒というか、もうどうでもいいと(かつてインテリ作家と呼ばれた)老人の開き直りのようにも見えてしまったのだが。ウディ・アレンも介護用おむつを付けながら監督しているのではないかと、そちらも心配になった。
夢で見る白黒映像がトリュフォー、ゴダール、ブニュエル、そして当然フェリーニとベルイマン。ストラーロがそれらの作家のベタな場面をチープな再現ビデオとして撮らざるを得ないのは、すでに過ぎ去った時と、大きく見れば「映画」そのものがすでに時代遅れの娯楽(表現)なのではないかと思わせてしまう残酷さがあった。
「人生に意味はない」と未だにひとり囀り、精神科医との対話から始まるのもウディ・アレン。リアルでもなんだかんだとありすぎた。もてはやされ、酷く嫌われ憎まれ、それでも表現してきた。映画のなかのウディ・アレンの身代わりでもあるウォーレス・ショーンが、妻と別れ、若い女性とも離れ、軽やかに物語を終わらせるのがとても良かった。そう、色々とあったが、そのすべてひっくるめてこれが死ぬまでの人生。
クリストフ・ヴァルツ扮するベルイマン映画の死神が「野菜と果物を食べろ、軽く運動しろ、大腸検査は受けろ」との忠告を残して映画から去っていく。生も死も、人生すべてが喜劇(ジョーク)。