Oto

ドライブ・マイ・カーのOtoのレビュー・感想・評価

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
4.1
描こうとしていることやその描き方の真摯さが、ふだん観ている映画たちと比べると群を抜いていてショックを受ける。映画を撮るために存在しているような人というか、本当に彼じゃなくては撮れない映画で、自分の生き方への劣等感や申し訳なさすら感じてしまった。

濱口さんの映画は「人が生きている」と言われるけど、"リアル"とはどこか違うと思う。ファーストカットをはじめとしてすごく幻想的だったり曖昧だったりする表現や台詞も多いけれど、映画館の外の世界と地続きで存在していつつ、非常に密度の高い時間が描かれていて、どんなに長尺であろうと時間を忘れて没頭してしまう。

「ドライブ中に亡き妻の声のテープとの対話を通してセリフを覚えている演出家兼役者」ってこんなに映画的な設定があるでしょうかって唸る。対等でない人間関係と二面性、虚構や孤独と向き合う葛藤。

浮気を目撃したことを言及せずに場所を偽ってホテルからテレビ通話をする緊張感とか、建前を含んだまま進んでいく序盤からずっと面白い。そして、「空白」「不在」の表現が本当に見事で、2年後の世界で淡々と仕事を続けている家福の姿はどこか『大豆田とわこ』に近いあっけない喪失感というか、観客に感情を処理させない強引さみたいなものを感じる。

マツダの「Be A Driver.」が「主人公であれ。」という意味だと聞いたことがあるけど、家福にとってドライブはまさに「自分自身でコントロールできるもの」の象徴であって、目の病や演劇祭の取り決めによってそれを奪われることが「人生の主導権を失っていく」(主演を演じられなくなる)ことのメタファーに思えた。

だから、みさきと出会ったときには無意識の差別や不信感以上に、自分が唯一安らげて思い通りにできる物を取り上げられる恐怖があったのかなと思ったけど、「不在」や「喪失」を共有することで、ふたりは共鳴していく。たとえ長い人生の中で見たら少しの期間であったとしても、ふたりが同化することでもう一度自分自身でハンドルを握れるようになる。

思えばこの物語の人物は、「空っぽ」と自称する高槻をはじめとして、何か大きなものを失って生きている人が多い。子供を失った音、母と家を失ったみさき、妻と運転を失った家福、声のない女優(彼女の関係性を伏せておくのとかもめちゃめちゃいいアイデアだよね...)...。

でもだからこそ、喪失を埋めようとして、他の人と繋がったり、何かを表現したりしようとしているのかもしれないと思えた。感情を一切いれずに「テキスト」と向き合うという演出法は濱口さん自身がやっているらしいけれど、役者は自分を完全に作品に捧げるからこそ行き着ける境地みたいなものがあると思うし、「母親は運転を教えてくれたこと自体はすごく感謝している」という背景にも同じものを感じた。カサヴェテス勉強したいな...。
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/interview/graduates/vol_10/

何かを決定的に奪われた存在からは、同時に何か自分を形成するほど大きなものを決定的に与えられている。流産のあとに自分を失ってしまった音が、多くの男を求めて動物的になれる瞬間に物語を紡いでいたのもそう。

ポンジュノがコメントで「決して焦ることのない監督」と言っているけど、本当に稀有だなぁと思うのは、その瞬間自体には意味があると思えないのに存在するべくして存在しているシーンを描いているというか、芝居のシーンでも食卓でも、韓国手話や外国語の芝居をあれだけリッチに、繊細な感動を持って写し取れる作家って他にいないと思う。

オーディションのシーンからこいつはやばいと感じさせる高槻も、駐車場前で盗撮されたときのオフの時間でその不穏さをより際立たせ、この映画いちばんの魅力と言ってもいいような車中の切り返しでの本音の対話、そして舞台の上から去っていく終盤まで、本当に丁寧に観客を楽しませる綿密な設計がされている。防犯カメラを見て「自分が殺した」ということでしか、自分の存在を証明できない存在。「本当に他人を見たいと望むなら、自分自身をまっすぐ見つめるしかないんです。僕はそう思います。」

車中やゴミ処理場での進展があってからの雪の中でのみさきとのクライマックスも、そしてラストの予想外のショッピングも、「思い通りにいかないからこそ面白い人生」みたいなものを愛している人なんだろうなというのがすごく伝わってきた。彼女の母親の背景も拠点を変えることになった経緯も、描かれていない余白がたくさんあるからこそ、奥行きを持った人物になっている。

演劇の教養がまるでないからわかっていないこともたくさんあると思うし、そもそも自分の脳では処理できないくらいの深みをもった展開が続くので、どんなに語り尽くしても言い当てられない魅力があるような気がするけれど、鮮烈な衝撃を3時間ずっと味わっていたような気がする。大江さんの存在も非常に大きいと語られていた。

トンネルから外に出た時の音の変化、車の前方を映していたキャメラが後ろを映すこと、言語の壁があることによって際立っている事件の無情さ、作中作の非常に高い完成度による説得力、テープのセリフと現状とのリンク、負の遺産を持った広島という場所...。

特に自分がすごいなと思ったのはやはりクライマックスの「正しく傷付けばよかった」で、「真実よりも無知が恐ろしい」ということともつながるけれど、傷ついている自分と向き合おうとしないで、強くあろうとし続けることの恐ろしさを突きつけられた。淡々と進んでいく違和感みたいなものを3時間ずっと感じさせたいたからこそ成立しているテーマで、どうやって監督はここにたどり着いたんだろうと感服した。

ふらふらいろんなことに手を出して、飽き性で見栄っ張りで実用的で、日常の違和感に目を塞いでいる自分がすごくダサく感じてしまったというか、もっと誠実に真摯に暮らしたいと思った映画だった。そう意味ではすごく追体験したんだろうな...広告や読書よりもよっぽど自分自身の行動を変える力があるのではないかと思ったりした。
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