Kachi

ドライブ・マイ・カーのKachiのレビュー・感想・評価

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
4.5
【「分かる」ということに謙虚になる物語】

学生時代に原作は読了。ただ、古い記憶のため答え合わせをするような野暮な鑑賞はせず、ドライバーに身を任せるように物語の流れを見守った。

鑑賞中に反芻した思考の断片を備忘録として記す。

1. 容れ物としての私たち
このことを意識せざるを得なかったのは、俳優と演出家がこの作品の中心にいたからであろう。自分という容れ物に、物語の人物を憑依させて演じる。そのことを徹底する営みが、ホンを何度も読み込むことであり、ホンに身を任せることである。

駆け出しの俳優高槻は「自分は空っぽなんだ」と言う。そのことは、中身がないというやや否定的なニュアンスを含むと同時に、どんなものでも受け容れる余地があるという役者としての長所でもある。ただ作品終盤、高槻は呆気なく降板を余儀なくされる。空っぽであることに加えて、器は大きくなければならないのだ。

2. 器を大きくするには自分を知ること
複雑に見えるストーリーは、つまるところ家福がワーニャ伯父さんを演じることができるかどうか…すなわち、自分の弱さを受け入れて人間としての器を広げられるかどうかに掛かっていた。

この物語の皮肉は、妻と関係のあった高槻との再会を契機に、家福が自分深く向き合うことになったことであろう。

妻を「殺した」家福と、母を「殺した」みさき。二人は似たような喪失感を抱きながら、徐々に自分と向き合っていく。辛い営みだとわかっているからこそ避けていた、まさにそのことを通して二人は「ワーニャ伯父さん」のスクリプトに記された、生き残った者たちは生きねばならぬという、まさにそのことに思いを至らせる。

3. 伝えることに謙虚たれ
私たちが人生を辛いと思うことがあるのは、自分のことを分かってもらいたいけど分かってもらえない、他人のことならなおさら分からない、という厳然たる事実による。

ただ、本作に出てくる人物たちは、人一倍伝えることの難しさに自覚的である。多言語での舞台とその稽古、手話による会話、あるいは寝室で交わされる男女のやり取り。

上手く伝わることなんて、稀なことだ。簡単に伝わると思っているとしたら、それは己の無知を自覚していないだけである。

しかし、伝えようとしない限り伝わらない。そして伝えようとするまさにその営みを通して、私たちは少しずつ器を大きくしていくのだろう。

ワーニャ伯父さんを演じ切った家福は、大切にしていた車をみさとへと譲り渡す。亡き愛娘と同い年のみさとへ、「父親」らしいことをするという以上に、彼は何かをこの広島滞在期間で得て、それへの恩送りをしたかったのではないかと思わざるを得なかった。
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