映画の始まりが1985年のグランカフェだとすると、映画は126年の歴史を持つ。
演劇や音楽など他のメディアに比べたら新しいけど、それにしたって長い。
ぼくは演劇とドラマに一度づつ、役者として出演したことがある。
普段「自分」という人間を演じているにも関わらず、演劇や映像という形式に則るとこうも難しいものか、と苦労した。
同じ芝居でも、演劇と映像では表現の仕方が全然違う。けど「感情と感情表出の課題」という意味では共通してる。
感情がほとばしれば伝わるわけでもない。
むしろ抑制的であった方が伝わる場合の方が多い。
作品にするために向き合うべき感情。
しかし逆に、感情に向き合うために映画にしたのが本作である。
120年を越える長い歴史の中で、逆ベクトル映画という発明をしたのが濱口竜介である。この手の映画は、メタ的すぎて玄人好みになりやすい傾向にある。
しかし、しっかりとエンターテイメントとしてこちらの感情までもエスコートしてくれるところが憎い。
そのような意味で、濱口竜介は発明家であり、超秀才脚本家だ。
以前、濱口竜介が脚本を務める『スパイの妻』(黒沢清監督)を観た時に、秀逸な脚本だと感じたが、映像作家のスタイルは黒沢監督とは幾分違う。
表象にフォーカスする作家であるという面では2人は似ている。しかし、空間を広く意識させる黒沢監督に対して、濱口監督はあくまで造形重視だ。
決して演技の幅が広くない(本作でも今ひとつなシーンが散見される)西島秀俊を主役に起用しているのは、その絶妙な造形にあると思う。
ファーストシーンの霧島れいかは、この映画が「造形の映画」であるという意思表示にも見える。そして、車内での西島秀俊×岡田将生の長い会話は、会話であることを超えて造形と造形の饗宴だ。
「男と女と一台の車があれば映画が撮れる」とゴダールは言ったそうだが、「人と一台の車さえあれば映画は撮れる」の間違いかもしれない。
造形としての人間はいかに感情を獲得し、表出へと変遷していくのだろうか。
人生がいかに苦しく、向き合いきれないものであったとしても…
誰かと同じ空間に居合わせる時間。
置かれていった言葉たち。
それらを媒介にして、心の中の「子なる自分」とシンクロし、感情表出される。
それが家福にとっての戯曲であり、音にとってのSEXだったのではないか。
SEXのシーンはまさにダブルミーニングで、八目鰻を廃して映像だけを見た時に、全く違うイメージが立ち現れる。
音にとってのSEXと家福にとってのそれは、完全にすれ違っていたのだった。
【ネタバレあり】
造形的であるがこそ、活きるシーンがある。
交通事故に遭い、病院で検査結果を待つ家福を音が抱きしめるシーン。
ラスト、ソーニャがワーニャ叔父さんを抱きしめながら手話で語りかけるシーン。
とても救われた気持ちになった。
ソーニャが語るように人生は苦しいが、
人は有無をも言わさず抱きしめられることによって、救われうる存在なのだと思う。
最後に三浦透子の演技、本当に素晴らしかった。
重要な雪山のシーン、
三浦透子の繊細さが際立っていた。
造形から感情、発露。すごい。