Kinako

クライ・マッチョのKinakoのレビュー・感想・評価

クライ・マッチョ(2021年製作の映画)
4.8
映画に愛された男、クリント・イーストウッド。監督50周年記念作品にして最高傑作。「老い」を経験した彼が新たに見出した「本当の強さ」とは何かー。

クリント・イーストウッドと聞いて一番に思い浮かべるイメージは何でしょうか。『ダーティハリー(1971)』や『荒野の用心棒(1964)』の様なタフガイか、『アメリカン・スナイパー(2014)』『グラン・トリノ(2008)』等を撮った凄腕監督か…。多様な顔を持つ彼は、今なお第一線で現代人の心に響く映画を撮り続けている。哀愁漂う演技であらゆる人々を魅了しながら。

さて、本作でイーストウッドが演じるのはマイクという、かつてアメリカのロデオ界のスターだった孤独な男。そんな彼が元雇い主から、「メキシコにいる別れた妻の元から不良息子ラフォを連れ戻してくれ」と依頼を受ける。このマイクとラフォの旅が2人の運命を変えることになる…。

ラフォは闘鶏用ニワトリ「マッチョ」と共に、危険と隣り合わせのストリートでその日暮らしの生活をしていた。興味深いのは、この「マッチョ」と名付けられた鶏はラフォにとって自己の投影であるということです。だからこそ、鶏「マッチョ」は本作で深い役割を果たすことになります。

それは一体どういうことか。劇中でラフォは「俺はマッチョだ」と自慢する。彼がそう断言する所以のものは鶏「マッチョ」の闘鶏実績からに他なりません。しかしラフォは自身の話となると動揺し、怒ったり泣いたりする。それは彼自身が鶏「マッチョ」がいない自分の価値を信じられていないからです。

例えば「見栄」という言葉があります。見栄は実をいうと自信の無さの表れ。それまでの経験から、見栄をとっぱらった状態の自分の価値を信じられない。だから他者の評価に依存し、本当の自分と向き合うのを放棄する。傷つくのを恐れて。

つまりラフォにとって鶏「マッチョ」は見栄の象徴であるといえます。ではマイクはどうか。マイクは「昔の俺は凄かったが、今は何もない」と落胆する老人です。マイクとラフォ、本作の2人の主人公はともに「本当の強さ」への問いに頭を抱えている存在です。

この2つの異なる「強さへの問い」にイーストウッドは見事に答えを出しています。それが本作の素晴らしいところだと思います。

終盤でラフォはとある選択を迫られる。この場面で本作は、誰もが一度は経験したことがあるだろう理不尽な真実をラフォにつきつけています。それは、「他者が自分にとっての理想的な人物だとは必ずしも限らない」ということです。

この他者と自分との乖離が実は、本作の裏テーマでもあります。「自分にとっての理想的な他者像」の崩壊に悩むラフォ。反対に、スターとして「他者にとっての理想的な自分像」を追求してきたが故に、その虚しさを知ったマイク。マイクこそがラフォの中の「マッチョ」を過去に体現していた人物として描かれています。

その老人マイクが…これまでタフガイを演じてきたイーストウッドが、見栄っ張りの少年ラフォに「マッチョ」の虚しさを語るので観客とラフォにとっては衝撃です。では本作でイーストウッドが提示する「強さ/マッチョ」とは何なのか。それは劇中のマイクの言葉で語られています。

マイクの言葉で、少年は文字通りとある運命の選択をして物語は終わる。それと同じくして観客は、クリント・イーストウッドが提示する、まさしく今の時代に必要な「マッチョ=強さ」の本当の意味を知ります。それを、ラストでの鶏「マッチョ」の扱われ方にも注目して、ぜひ多くの人に確かめて頂きたいです。

マイクは「老い」、ラフォは「若さ」ゆえに今の自分に無いものがある。そんな自らの受け入れがたい「弱い部分」に気づける姿勢にこそ「マッチョ」が備わるのではないだろうか?それはかつて様々な「強さ」を俳優、監督業で体現してきたイーストウッドだからこそ到達し得た問いだろうと思います。


「本当の強さとは何か?」というテーマにクリント・イーストウッドが出した答えは、この世を生きる全ての人々に通用する普遍性があります。即ち「今の自分」は過去の行いによって決まるのではない。これからどう生きたいか、どんな人物になれると信じているかで決まる。そう自分の人生に希望を見出したとき、誰もが彼の様な『マッチョ』になれると…。

本作はイーストウッドの映画人生の到達点であり、新たなる冒険の始まり。次は私たちにどんなメッセージをくれるのだろうか。楽しみでなりません。
Kinako

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