Oto

14歳の栞のOtoのレビュー・感想・評価

14歳の栞(2021年製作の映画)
4.2
衝撃的。去年見逃してしまったので再上映で駆け込んだけどみてよかった...。『桐島...』や『エレファント』のような青春群像劇をドキュメンタリーなアプローチで撮ったような奇跡的な映画。

クリープハイプの栞の「簡単なあらすじなんかにまとまってたまるか 途中から読んでも意味不明な2人の話」という歌詞から企画が生まれて、人生で最も曖昧な「中2の3月」に焦点を当てたらしい。
14歳を経験したことのある人全員が35人の青春を追体験させられてしまうヤバい映画。その意味では『花束...』と近い部分があって、「観客の思い出と自分語りを引き起こすスイッチ」として機能している。だから何時間でもみていたいと思うし、終わったときの寂しさがある。

まず「どうやって撮ったのか」「どうやってこの映画が成立したのか」の想像がつかなすぎて調べてみるといろいろ映画の作り方を壊している部分があって、
・作り手の存在を排除するために、撮録監の2班が朝から晩までなるべく生徒と同じ立場で、給食や授業まで一緒に参加した(=慣れや飽きのある状態で接することができた)
・編集を6人がかりで行って、35人全員の短編映画をつくることで、本人や学校、家族にとっても出る意味のあるものにした(=35人の集団ではなく1人の生徒として接した)
などかなりイレギュラーなことをやっている。映画畑の制作陣じゃないからこそこれをやれている部分はあると思って、かっこいいなと思う。SNS時代にあえて閉じた映画をつくるという試み。

「フェイクドキュメンタリーか?」と感じさせるほど、全員が個人的なことを話しているし、家庭や習い事にまで密着しているし、「見られる」ことへの意識がほどよくなくなっているし、コロナ前の2019年というタイミングのあの場所でしか成立しなかったであろう奇跡的な映画だと思った。プロジェクトの始まり方が気になるけど、制作陣と先生とで繋がりがあったりしたのかな...部外者に対して簡単に許可がおりるとは思えない。

自分も身近な人のドキュメンタリーを撮ったことがあるけれど、どんなに対象のことを信じても映画になるような瞬間を切り取れるという確証はないし、多くの作り手が「仕掛け」みたいなものをつくりがちな中で、神の視点というか、クラスメイトの一員のような視点でこの作品を撮りきったことがすごいなぁと思う。
実際、不登校の生徒や車椅子の生徒を対等に撮っているけど、監督自身も「僕らのような異質な存在はすごく些細なきっかけで排除されかねないので、生徒たちの日常を壊さないように気を遣っていた」というような話をしていた。

自分だったらどのグループに所属していたんだろう?、どの子を好きになっていたんだろう?、みたいなことを嫌でも考えてしまう。
宇宙男子のような「自分にはやりたいことがあるから、バカは放っておこう」みたいなマインドは自分にもあったし、車椅子の男の子や工芸部の女の子のような「自分の居場所はここじゃない場所にあって、今はオフの自分なんだ」という意識もあったように思う。

実際自分は水泳部からの軽音部という、体育系でも文化系でもないすごく曖昧な立場にいて、割と誰とでも仲良くできるし勉強も芸術もかなりできる方だけど、クラスの中心にいるわけではないという存在だったので、この子だ!みたいな存在はいなかったと感じた。
音楽や映画などサブカルに傾倒している男子がいなかったのもあるかも。東野圭吾や伊坂幸太郎が大好きなクラスメイトとは親友になったので、『蹴りたい背中』読んでいる子とは仲良くなれたかも。みんなと違う評価軸で生きていること、比較しなくていいこと、ってかなり大事なんじゃないのか。。

きっとバレー部のエースの子とか吹奏楽部のパートリーダーの子のことを好きになって、でも特にアプローチすることもなく中3になっていたんだろうなと思う。
思えばあの頃って「クラス」と「部活」が生活のほぼすべてだから、もし隣のクラスになっていたとしたら全然違うものや人を好きになっていた可能性があって、中高の6年間それぞれで仲良かった友達とか好きだった子って今でも明確に思い出せる。不登校の彼も、側から見たら些細なきっかけで学校に行けなくなってしまって、もし環境が違ったらもっと学校を楽しめたんじゃないかなと思ったりした。

春日部という地域性も大きいんだろうなと思って、『プー金』で描かれているような地方の閉塞感みたいなものはひしひしと伝わってきた。「いまはその環境がすべてだから部活や習い事に全身全霊で打ち込んでいるけど、別に将来それが何かにつながるとは思っていない」という冷めた諦めの姿勢に、自分まで胸が苦しくなった。
「ロボットクリエイターになりたかったけど14歳じゃもう遅いですよ」とか「サッカーなんていくらでも上手い人いるし公務員になって家族を作りたい」とか「気に入られるために自分を殺す術を覚えた」とか「小さい頃から全てを注ぎ込んできた体操も高校でやめる」とか、早く大人になってどこか遠くにいきたいと全員が本質的に思っているように感じてしまった。

自分よりもよっぽど現実主義で「身の程」を知ってしまっているのが残酷。非日常といったら、教育実習で来るイケメンの先生か、デパートで好きな子と食べるアイスか、任天堂スイッチくらい。想像していたほど生活がDXされていないし(TikTokやフォートナイトをしていないのは1人でやる子が多いから映っていないのもあると監督が言っていたけど...)。
自分が都心の中高一貫の進学校に通わせてもらえたのは本当に幸福だったのかもしれないと感じて、先週もテレビの受験特集で、千葉で一番の進学校に通ってる子供たちが「将来はMITでプログラミングを専攻したい」「家でも実験に熱中していて化学者になりたい」みたいな広い視野の大きな夢を持っていて、環境にキャリアが規定されてしまう側面は本当に大きいのかもしれないと感じた。

「全員が主人公」なのは疑いようがないけど、ある意味で彼ら彼女らの閉塞感や諦めみたいなものが「主人公性」を生んでいて、坂元裕二が「10元気な人が100元気になるための作品はたぶんたくさんあるけど、僕はマイナスにいる人がせめてゼロになる作品を目指している」ということを言っていたのを思い出した。キラキラした学園生活を送っている人たちではなく、そんな人たちのためにこそこの映画が存在しているのかもしれないし、あの35人だからこそ生まれた物語かもしれないと思った。
特に「創作」や「キャリア」になると、学園カーストと主人公が反転するような気がする。『桐島...』も東出くんが主人公じゃないことを自覚する物語だったけど、本作でもクラスの中心にいる運動部の生徒たちより、馴染めずに卑屈な視点を持ってる生徒たちの方に興味を持ってしまう。笑い飯は「懲役」(学校で人をいじってきた分、社会に出るといじられるようになる)と喩えていた。

よく「誰のために仕事をするか・ものをつくるか」という問いに対して、「14歳の自分に対して」という回答がなされるけど、たしかにもうすぐ倍の年齢になる自分をあの頃の自分がかっこいいと感じてくれるかの視点は持っていたい。「社畜」にはなりたくない、と言っていた彼女の言葉が刺さった。
『6才の僕が...』みたいに『24歳の栞』も撮って欲しいなと思うけど、一体生徒たちがそれを望んでいるのか、この作品を彼ら自身がみたときにどのようなことを思うのか、はすごく気になった。映画になる喜びは多少あるかもしれないけど、100%ハッピーにはならないだろうなと思ったりもする。

冒頭の馬の誕生シーンはさすがに長すぎるな...と思ったりもしたけど、映画というメディアを選んだからこそ、観客の想定を覆す、あの「強制的なリセット」が効果的だという話を聞いてたしかにと思ったりもした。映画館に日常的に足を運ぶ僕らはターゲットではないということかもしれない。3週間近く山に籠もって撮ったらしくすごい執念。
「群れる生き物」としての人間は、幸福度がほとんど人間関係によって決められる、という研究も聞いたことがあるけれど、一方で「人脈は負債だ」みたいな主張もあって、自分も学生時代に持っていた「群れるのはいいけど、あなた一人で何ができるの?」みたいな厨二病視点をいまだに引きずっているところがある。実際最近では、中高時代の友達とコミュニケーションをとることってほとんどない...。

企画の栗林さんはたしか『クリープハイプ展』の企画をやっていたので、その繋がりでこの映画も生まれているんだろうなと推測していて、意志を共有したつながりを増やすことって大事だなと思ったし、群れたい・繋がりたいと思われる人でいたいと思った。みんな14歳だったんだな、って思うと少し優しくなれる。
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