ベイビー

偶然と想像のベイビーのネタバレレビュー・内容・結末

偶然と想像(2021年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

待ちに待った濱口竜介監督の新作。
期待以上に素晴らしい作品でした。

「偶然」から始まる三つの物語。
「想像」もつかない未来への道筋。
この三つの短編どれもが素敵な脚本です。

ベースは1対1の会話劇。物語は何気ない会話で始まり、流動する会話は幾つも形を変化させ、そして予測できない結末へと進んで行きます。

その巧みなストーリー展開は本当にお見事としか言えません。全編がほとんど1対1の二人芝居。対話によって互いの感情が交錯し、現状を覆し、そして想像もつかないアイロニックな結末へと誘なってくれるのです。

今作はタイトルどおり「偶然と想像」をテーマにして3つのストーリーが作られていますが、物語ごとでテーマがどのように表現されているのかを意識して観るのも作品の楽しみ方の一つ。そうやって「偶然」を意識して観ると「偶然」は「偶然」だけでなく、色んな捉え方にも変換できるんですよね。

もうすっかりお馴染みになってしまった、濱口メソッド。「ドライブ・マイ・カー」の劇中演劇で家福悠介自身が独自の演出方法として実践していたように、本番前の下準備段階で感情を入れない棒読みのセリフ(テクスト)を何度も反芻し、その状態を残したまま演者を集めてテクストの読み合わせを行い、会話の流れや間を固めてからようやく本番に挑みます。

この作品を観られた方のレビューで「棒読みが気になった」と書かれている感想をよく目にしましたが、それを"濱口式演出方法"だと認識して観ていただければ、その棒読みにも意図があり、感情のないセリフ回しもそれほど悪いものではないと理解いただけると思います。

濱口監督がこの演出技法を取り入れる理由は、昨年10月に第34回東京国際映画祭のプログラムで行われたイザベル・ユペールさんとのトークショーで語られており、一つは役者さんがカメラの前に立った時の不安をなくすこと、一つはその不安から出る役者のクセや思考を取り除くことが理由なのなどと仰っていました。

この三作品において、確かに所々で感情が伝わりにくい棒読みでの会話が目立ちます。しかし、それが芝居の中でのリアルであり、現実としては異質である彼らのキャラクターを作り上げているのではないでしょうか。

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以下、ネタバレと勝手な考察です。



第一話:「魔法(よりもっと不確か)」

昨年の11月に札幌で行われた「映画へと導く映画」という講演会で、濱口竜介監督はご自身が好きな作品として、ハワード・ホークス監督の「赤い河」という約70年前に公開された西部劇を紹介されていました。

その時に濱口監督が絶賛されていたのは、一万頭を優に越える牛の群れが統制をもって一定方向へ進んで行くシーンでした。制御しにくい動物。しかも一万頭近くのあれだけの大群をワンショットに収めたスケール感や圧倒な物量に大変驚かれたようです。それに何よりもハワード・ホークス監督の計算された"空間の使い方"の演出にひどく感銘を受けられたとのことです。

この作品は広大な牧場を持った開拓者とその養子が新天地で商機を求めるロードムービーなのですが、その移動の最中での進行方向は一貫して上手(スクリーンの右手)から下手(スクリーンの左手)に向かって牛が運動しています。この一貫した右から左への運動性のおかげで、観客は無意識のうちに目的地が左方向にあるものだと擦り込まれているのです。

その効果は絶大で、クライマックスに突如統制の効かなくなった牛の群れが、一斉に左から右へと逆方向へ暴走し始めることで、物語に言いようのない絶望感を与えているのだ。と講演会の中で仰っていました。

右から左へと進み続けた運動方向を、たった一度覆すことで生まれる爆発的なドラマ性。濱口監督はその見事な演出を施したハワード・ホークス監督を大絶賛し、講演会の中で「天才的」だとも言われていました。

参考動画:youtube「映画へと導く映画」
https://youtu.be/LoaigXBukkA

前置きが長くなりましたが、濱口監督は第一話の中で、これに似た演出をされているんですよね。

冒頭は芽衣子がつぐみらと共に道路脇で写真撮影をしています。撮影後、芽衣子とつぐみはタクシーに乗り、車中でガールズトークを繰り広げます。

この一連の流れに於いて、道路の車の流れは常に上手(右)から下手(左)に向かっているのが分かります。「日本の道路事情、そりぁそうだろ」と思われるかもしれませんが、濱口監督が講演会であのように仰っていた言葉を汲んでみると、それは意図しての構図だと考えてもよさそうです。そうでなければわざわざあの狭いタクシーの中で、芽衣子とつぐみと外の景色を同じフレームに収めないと思うのです。その理由は冒頭で示した進行方向を無意識裏に持続するためだと思うのです。

その無意識裏に忍ばせた演出は、つぐみがタクシーを降り、芽衣子が運転手に「来た道を戻ってください」と言った後に起こる物語の転換時に最大の効力をもって発揮することになります。言うなれば、芽衣子のUターンは牛の群れの暴走と同じです。タクシーは踵を返すように今来た道を戻ります。方向はもちろん下手(左)から上手(右)へ。ここから牛の暴走ならぬ、芽衣子の暴走が始まります。

正直、芽衣子は本当に面倒臭い女性です。濱口監督ってプライベートでもこういう面倒臭い女性を好まれるのでしょうか? 「寝ても覚めても」の朝子といい、「ドライブ・マイ・カー」の音といい、芽衣子との特徴が違えど、同じように少し面倒くさそうな女性たちが目立ちます。しかし、その彼女らの特殊性がメリハリの効いたコントラストとして、物語に描かれる"愛"の形をクッキリ浮き立たせてくれるのです。

この物語のラスト、喫茶店で芽衣子とつぐみと和明が三人鉢合わせになって、やがて芽衣子が一人取り残されるシーンがあります。その瞬間、カメラが急にズームで芽衣子の顔によっていきましたが、僕はかなり雑な演出だと感じました。この時「ホン・サンス監督みたいなに雑な寄り方をするなぁ」と思っていたら、続けて観ているとしっかり意図のある演出だったので安心しました。

そう言えば、濱口監督は色んな場で好きな監督や影響された監督の名前を聞かれると、ホン・サンス監督やハワード・ホークス監督の名をよくあげられています。その他によく名前が出てくるのがエリック・ロメール監督です。

今作を制作するにあたり、エリック・ロメール監督の「パリのランデブー」がかなり影響されているみたいですね。「パリのランデブー」もオムニバス形式の作品で、その第一話は今作の「魔法(よりもっと不確か)」同様、男女の三角関係をテーマにした物語みたいです。

そう考えると、この第一話の中に好きな監督へのオマージュがふんだんに散りばめられていると言えますね。それは濱口監督流の映画への敬意なんでしょう。他にもまだまだ色んなオマージュが隠されているかも知れません。




第二話:「扉は開けたままで」

この物語の中で、瀬川が自分の書いた小説について「そこに書かれた言葉の一つ一つは偶然そこに置かれたのではなく、それまでに置かれた言葉の積み重ね結果、必然的に導かれた言葉がそこに存在しているに過ぎない」と(だいたいこんなことを)言っています。

そのセリフはまるで濱口監督ご本人の言葉のように聞こえてしまいます。

この作品は短編三作品合わせて約2時間。そのほとんどが1対1の対話で物語が進められて行きます。その対話を中心として物語を展開するには、よっぽど綿密なワードチョイスをしなければ、会話も芝居も嘘っぽくなってしまい、物語全体が台無しになってしまいます。瀬川のセリフは監督が脚本を書くにあたり、ご自身が苦労された実体験のもと生まれたセリフなんだと思います。

そして、さらに瀬川のセリフを掘り下げてみると、この「偶然と想像」というタイトルも少し違った解釈ができてしまいます。

例えば先程の瀬川のセリフの中にある「言葉」というワードを「人生」に置き換えてみると「人生の一つ一つは偶然そこに置かれたのではなく、それまでに置かれた人生の積み重ねの結果、必然的に導かれた人生がそこに存在しているに過ぎない」となります。

人生に偶然などない。となれば、偶然な出会いも存在しなくなり、全てが必然ということになります。

「扉は開けたままで」というタイトルで示しているとおり、瀬川はパワハラ、セクハラの類いなどは、全て自分の不注意が引き起こした結果だと考えているはずです。たとえそれが冤罪であったとしても、誤解を生む要因を作ってしまった自分にも非があるのだと言うに違いありません。

これはラストの潔さにも繋がりますが、瀬川の思考では「最終的に誤解を生むのは、自らが創造した文脈(言動)に、不必要な言葉を不適切な場所に置いてしまった自分にも責任がある」と信じているのではないでしょうか。したがって、全ての出来事は"偶然"ではなく"必然"だと瀬川は常に考えているのだと思います。

そうやってリスクマネージメントを意識し、あらゆるハラスメントでの誤解を受けないように「扉は開けたままで」を実践する瀬川自身は、実際のところ誰にも心の扉を開いてないことになります。そう考えるとあの不自然に聞こえる瀬川の棒読みも腑に落ちるんです。普段から自分の感情を伝えないように心掛け、小説(虚構)の中だけに本来の自分の姿を曝け出しているのだと。

しかし、瀬川と奈緒が互いに本音を言うようになってからは次第に言葉の緊張も解け、セリフも自然になって行きます。瀬川もつい心の扉を開けてしまい、それが思わぬ展開へ進んでしまいます…

実にアイロニックな結末です。あれだけ気をつけていたのに、他人に心を開いたことが仇となって…




第三話:「もう一度」

この作品が、三作品の中で一番「偶然と想像」というタイトルがピッタリな作品だと感じました。そして一番考察がしにくい作品だと思いました。それはこの脚本が"難解"だった、ということではなく、この物語の中には言語化できない不思議な感動がそこはかとなく溢れてくるからです。

「勘違い」から始まる「偶然」。その勘違いの前と後では物語から漂う空気感が大きく変わり、言葉を重ねるごとに二人の距離が縮まって行きます。その二人でしか分からない二人だけの心の移り変わりが不思議な感覚として伝わってくるのです。

物語の終盤、仙台駅のクライマックスのシーンでも、例のホン・サンス監督みたいな寄りのカメラワークがあったのですが、このとき画角に収められていたのは、夏子と赤い花でした。そう言えば、一話のラストで芽衣子が写真に収めたも、都会の木に咲く赤い花です。

さすがに花の種類までは分かりませんでしたが、芽衣子と夏子のそれぞれその時の心境を察すれば、あの赤く咲く花は、彼女らの心の象徴です。心が生まれ変わり、美しく咲き誇れた瞬間。本当の自分を見つけた瞬間です。(だとしたら、瀬川教授が心を開いた時にも赤い花はあったのかな? うーむ、今すぐ確認したい)

濱口監督は「寝ても覚めても」や「ドライブ・マイ・カー」でも主人公たちに新たな感情を芽吹かせていますから、今作での赤い花は、主人公たちの季節のように移りゆく心の変化の中で、一番美しい瞬間を切り取りたかったのかもしれません。

その後、二人は互いに連絡先も聞かず、別々に歩き出します。しばらくしてエスカレーターを下り終えたあやは、高校時代の友人の名前を思い出し、夏子のもとへと駆け寄ります。

その名前は「のぞみ」。

これ、凄くないですか? なぜ、あやは名前を思い出せたのでしょうか? それを考えると、なんとも言えない温かさが心の底から込み上げて来ます。これこそが言語化できない感動です。

それはあやの気持ちになり、タイトルと組み合わせると紐解けます。タイトルの「もう一度」とは、夏子が昔の恋人ともう一度会いたいという願いのこもった言葉でもありますが、それからもう一つ、他のものにも掛けられているように感じられます。それはあやの感情です。

きっと、あやはエスカレーターを下るまでの間、夏子との出会いに何らかの感情が生じ「連絡先知らないな、もう会えないのかな、もう一度会えたらな…」と強く望んだのではないでしょうか。その心の呟きが上手く変換され、20年前の記憶と合致したのではないでしょうか。

「もう一度」、「のぞみ」。そのわずかな言葉の中で人の心情をここまで鮮やかに映し出せるって凄くないですか? 三作品全てに言えることですが、目まぐるしく流動する会話の中に、物語には前があり、後があり、そうやって過去と未来を想像させる不思議な力で溢れているんです。

本当、濱口監督作品って映画IQが高いというか、映画文法の構築がとても巧くて、作品の内容としては常に説明が少ないのですが、脚本の行間の中に情報量がとても多く含まれていると思うんです。

人の出会いがもたらす「偶然」。
その「偶然」がもたらす「アイロニカル」。

人生は、切なくて、苦しくて、美しい…

そんな人と人とが織りなす可笑しさをアンソロジーとして見事に表現された今作。調べによると、濱口監督は短編を7作用意されていたみたいで、3作で編成された本作はまだ前編とのこと。ということは、後編の4作がのちに公開されるんですよね。

ああ、公開が待ち遠しい…
ベイビー

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