ナガエ

復讐者たちのナガエのレビュー・感想・評価

復讐者たち(2020年製作の映画)
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これが実話だとは。
まだまだ知らないことが山ほどある。


僕は、「復讐」は無意味だと考えている。復讐したところで何も変わらないし、どころか、負の連鎖がいつまでも続くだけだからだ。

しかし、「復讐心を抱いてしまう人」を否定するつもりもない。

何故なら、「復讐心」しか生きる希望を繋ぎ止めることができない人もいると思うからだ。

映画の冒頭、こんなナレーションが流れる。

【家族を殺されたと想像してみてくれ
あなたの姉妹 兄弟 両親 子どもたち
罪もないのに殺された
どうする?
さあ、自問してくれ
どうするのかと】

僕は、これほどの状況に置かれたことはない。というか、現代を生きるほとんどの日本人が、戦時下のユダヤ人ほどに辛い状況に置かれることはなかなかないだろう。

人間は、なかなか強く生きることができない。強い者もいるが、全員ではない。悲惨な過去を背負い、現在進行系で苦しい状況に置かれている時、やはりその現実を否定したくなる。

それが、まったく自分に非がないとするならなおさらだ。

辛い現実を否定するために、誰かを憎むことは自然なことだと思う。

そういう人間の気持ちを、僕は否定することはできない。

映画の中で、

【これが真の復讐だ】

とある人物が語る場面がある。彼が語った「復讐の内容」は、ここでは触れないが、彼のような選択を取れるのは、やはり強さを感じる。

そう簡単に、誰かを許したり、過去を水に流せるわけではない。

このような、歴史の悲惨さを描く作品に触れる度に感じる。

彼らを否定することなど簡単だ。しかしそれは、安全な世の中に生きているからこそ言える戯言だとも感じてしまう。

彼らと同じ時代に、同じ環境にいた時、自分が同じことをしないと断言できるという人間は、想像力が欠如していると思う。

こういう作品に触れる度に思う。

極限状況においては、自分はいつ「悪」に転じてしまってもおかしくないのだ、と。

自分が、まがりなりにも「善」側にいられるのは、ただ運が良いだけなのだ、と。

そういうことを、いつも忘れない人間でありたいと思う。

内容に入ろうと思います。
1945年、ドイツでの戦闘が終結し、マックスはどうにか生き延びた。ユダヤ人であり、アウシュビッツ・ビルケナウに収容されていた彼は、残酷な日々を悔恨しながら、家族と会える一縷の望みを抱いて、どうにかタルヴィージオへと向かう。ユダヤ人の難民キャンプがあり、家族が生きているならそこに向かうはずだと、見知らぬ男に声をかけられたからだ。
アブラハムと名乗る見知らぬ男とタルヴィージオを目指す道中、アブラハムが肉の匂いがすると言って兵士がサッカーをしている方へと向かっていく。そこで出会ったのが、英国軍のユダヤ旅団である。彼らはマックスらを難民キャンプまで送り届けてくれ、パレスチナまでの輸送車に乗るよう案内してくれた。
しかし、難民キャンプで聞いたある事実をきっかけに、マックスは残る決断をした。
実は、ユダヤ旅団のメンバーは、英国軍に黙ってある活動をしていた。戦時中にユダヤ人を迫害していたドイツ人を探し出し、次々と処刑していたのだ。その事実を知ったマックスは、自分もその仲間に入れてほしいと頼み込む。
ユダヤ旅団と行動を共にし、ユダヤ人の虐殺に関わったドイツ人を次々に射殺していくのだが、その過程で「ナカム」という別の集団の存在を知る。
同じくドイツ人に復讐をしているユダヤ人の集団だが、ナカムはより過激で、ドイツ人であれば民間人も殺していると噂されている。
やがて事情があり、ドイツを離れなければならなくなったユダヤ旅団と分かれ、マックスはナカムに潜入することになるのだが……。
というような話です。

冒頭でも書いた通り、僕は「復讐そのもの」は無意味だと思っているが、「復讐心」は否定しない。この物語でも、ユダヤ旅団やナカムが、独自の理屈で制裁を加えていくわけだが、彼らが背負わされたものの大きさを考えると、「復讐心」を抱いてしまうことは仕方ないと感じさせられる。

もちろん、ユダヤ人の虐殺に直接的に関わった人物というのは、ドイツ国民全体からすれば一部だろう。しかし、この映画に登場するユダヤ人の一人は、一般のユダヤ人も決して許さないと決意している。

【彼らは見てたのよ。
私たちが迫害されるのを。
ドイツ人は、私たちの悲鳴を聞いて、喜んでた。】

いじめの議論においても常に、「直接的にいじめに加担した人」だけではなく、「見て見ぬ振りをして何もしなかった人」も同罪だ、とされることがある。

確かに、気持ちは分からないでもないが、僕としてはその意見にはあまり賛同したくはない。同罪のはずがない、と思う。やはり、「直接的にいじめに加担した人」が圧倒的に悪いし、「ヒトラーを始めとする、ユダヤ人虐殺に直接関わった人」が絶対に悪い。

しかし一方、僕は心理学の世界の有名な実験のことも知っている。「ミルグラム実験」と呼ばれるその実験は「アイヒマン実験」とも称されており、ユダヤ人収容所の所長だったアイヒマンの裁判が始まってから1年後に行われた。

アイヒマンは裁判で、「自分は命令に従っただけだ」と主張。そしてミルグラムは、「権威ある人物から命じられれば、誰もがアイヒマンのように人を殺してしまうのか」を検証する実験を行った。

非常に有名なこの実験では、70%近い人がアイヒマンと同様の行為を行いうる、という結論が出ている。

実験の詳細は調べれば出てくるので検索してほしいですが、この実験の存在を知ってしまってから、「ユダヤ人虐殺に直接関わった人も、本当の意味で責任があると言えるのか?」という点に、自信がなくなってしまった。

映画の原題は「Plan A」である。これは、実際に存在した「ユダヤ人によるドイツ人への復讐計画」につけられた名前だ(この名前が、この映画内に呼び名なのか、それとも実際に「Plan A」という名前だったのかは分からない)。

これはネタバレではないと思うが、実際に「Plan A」は実現しなかった。実現していたら、世界はまたとんでもなく変わっていたことだろう。

「Plan A」が現実のものとならなくて良かったと思う。しかし一方で、「ユダヤ人による『真の復讐』」は、果たして実現したのだろうか? とも思う。

恐らく、実現はしていないはずだ。

だからこそ、我慢を強いられ続けてきたユダヤ人たちが、一矢報いることができるような何かがあってほしい、とも願ってしまう。
ナガエ

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