lotus

あのことのlotusのレビュー・感想・評価

あのこと(2021年製作の映画)
4.8
アメリカで女性の中絶権を認めるローV.S.ウェイドの判決(1973年)が昨年の6月最高裁で覆された。日本ではその後に公開された映画だ。

タイミング的に女性の自己決定権というテーマが強調されるが、自己決定権が奪われようとしている女性の周囲にいる人間のモラルを問う話でもある。

舞台は1960年代のフランス。主人公のアンヌは優秀な文学部の学生で、将来教師になることを夢見ている。

ちょうど時代的に中流家庭の女性も大学に行くようになってきた時代で、キャンパスには女子の姿も半数近くいる。

大学には行かなかった(行けなかった)彼女の母親は、自らはカフェで働きながら、本でも買いなさいといって娘が帰ってくるとわずかなお金を渡し、娘は大学に行っているのよ、と自慢気に客に話す。そんな時だけは、日々の労働にくたびれた表情に笑顔が戻る。

裕福とはいえない家庭出身のアンヌだが、教室では難しい質問に難なく答え、教師からも友人からも未来を嘱望されている。
勉強が終われば女友達と話したり、流行りの音楽で踊るために息抜きに夜遊びする。
男との出会いもある。

普通の、そしてかなり順調な大学生活を送っていたのに、妊娠していることに気づいてからは、彼女の生活は混乱と恐怖を抱え込んだものとなった。
この時代は中絶は違法。なんとか中絶できないかあの手この手を使うが、お腹の中の子どもは育っていき、アンヌの食欲も増えるばかりだ。

自分の力を発揮して教師になるためには、いま子供を産むわけにはいかない。わずかなお金のために働き詰めでいつもくたびれて、冴えない顔をした母親のようにはなりたくない。
自分の人生を確固としたものにするために、いま子どもは産めない。子どもを産むなんて考えられないが、どんどん膨らんでいくお腹を持つ身なので、どうするのか必死に考えなければならない。

アンヌの妊娠を知った医者(男)は「諦めなさい」と、さもそれがアンヌのためだ、というように述べる。子どもを産んだ後のアンヌがどうなるかなんて、その医者は考えていない。

藁にもすがる思いで助けを求めた男友達には、どうせ妊娠してるんだから、いいじゃないか、とアンヌの体を「痛めつけていいもの」として扱おうとする。

妊娠する原因となった相手の男子学生を遠方に訪ねて行くと、男は自分のコミュニティ内での立場が悪くなることばかり気にして、アンヌの将来にはなんの関心もない。彼も子どもを今持つことなんて到底考えられない。そして、妊娠しているのは彼の体ではないので、考える必要もない。子どもを自分の体から切り離す必要がない。ただ、アンヌを自分の人生から切り離せばよいのだ。そうしたって、自分の体が痛むわけではない。

この男子学生は政治学部に在籍しているが、こんな学生が将来官僚や政治家になり、法を作る側になるのだとしたら(恐らくエリートなのでその可能性が高い)アンヌのような不幸がより大規模で繰り返されるのではないだろうか。

1960年代は性革命でフリー・セックスの価値観が出てきた一方、その結果を引き受けるのは女性側で、その結果を女性が望む形で解決する方法がなかった時代と言える。(過去形にしたいところだが、過去形にできない)

体内に時限爆弾を抱えながら、何とか闇で堕胎してもらえる目処がつき、アンヌはお金を工面するため、身につけていたアクセサリーや小説をキャンパス内で売りに出す。もう一度未来を取り戻すために、文学の教師になりたいという彼女の夢を育んできた小説を、今、二足三文で売らねばならない。

アンヌはたった1人で立ち向かわなければならなかった。仲の良い(と思っていた)友人2人は、中絶は違法だ、と怯みおびえる(中絶に協力するのもこの時代は違法)。
1人はセックスに興味津々で早く経験したい、と言っていたのに一番強い拒否反応を示し、現状の規範(女性は妊娠したら中絶をしてはいけない)にとどまることに固執する。
もう1人の友人も、聞かなかったことにする、とだけ言って、アンヌに救いの手は差し伸べない。

だいぶお腹が膨らみ、もう一刻の猶予もないというタイミングでなんとか施術を受けられたが、なかなか子どもが流れない。
しばらくして、大学寮のベッドの上でうなされ、大量出血をする。うめき声を聞いて寮長と思われる学生が様子を見に来て、病院に行かないと!と言うが病院には行けない。違法行為の末の大量出血なのだ。

異変を感じてトイレに駆け込むアンヌは寮長の女子学生に助けを求める。
そして、シーンはアンヌが病院に運び込まれるところに移る。
この件は「流産」として処理され、アンヌは大学に戻ることができる。

興味深いのは、この寮長の女子学生は以前、アンヌが寮の冷蔵庫から他人の食糧を勝手に食べていることをおそらく誰かから聞いて、シャワー室でアンヌに会った際に、寮の規則を守れ、と注意している。
この映画では、規範を守れ、と言っていた人間が、本当に困っている人間を目の前にした時、規範を破っている(=アンヌを助けている)。

Happening(この映画の英訳タイトル)というのは、アンヌにとってのHappening であると同時に、周りにとってもHappening が起きた時にどのように対応するか、そしてその瞬間にどのような行動を取るかがその人の
モラルや人としてのあり方を問うことになっている。

ちなみにこのHappening(妊娠)はアンヌだけが経験したことではない。彼女に闇で堕胎をする場所を教えてくれる学生風の女子の存在や、そもそもそう言った闇での堕胎が商売として成立していること、後に沈黙を決め込んだ友人が自分も妊娠するリスクがあったと告白するシーンがあることから、こういったHappening は闇と沈黙の中に沈み込んではいるが普通に起きていたことだと推測できる。

法律とは何か、モラルとは何か考えさせられる映画だったという感想を持つと同時に、法律というのはどのようにでも変わりうるのだから、Happening に関心を持たなかった人に法を作ることを委ねないために行動をしなければ、簡単に時計の針が逆回転してしまうという事実を今、目の当たりにしている。

映画の話とはズレるが、最近マリー・クワント展を見に行って、60年代のイギリスでは、女性は銀行口座もクレジットカードも持つことができず、公の場でズボンを履いてはいけなかったことを知った。わずか半世紀ほど前の話だ。(ちなみにフランスでも、1965年まで女性は夫の許可なしに銀行口座を開けなかった)

今日、私たちは学生でも銀行口座を持って、当たり前にジーンズとかを履いている。
今当たり前にやっていることは、誰かが勝ち取ってきたものだ。おかしいと声を上げて、規範を破った女たちのおかげだ。

いい子で規範を守っていれば自分の身を守れるのか?大事な友人や、今目の前で困っている人を助けることができるのか?あるいは、自分が本当に困った時に助けてもらえるのか?

未来に希望を持って、普通の学生生活を送っていたはずの少女の物語を、多くの人に知ってほしい。普通に生きていただけで、どんな目に遭わされるのか、知ってほしい。

同時に、知ることはスタート地点にはなるが、知るだけで充分なのか。私たちはすでに現実に巻き込まれていて、行動しなければ、私たちの人生に関心のない人が、私たちの人生を翻弄し続けるということも、この映画を見ると痛感させられる。
lotus

lotus